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翌日は大雨になった。英語で言うキャッツ・アンド・ドッグ、土砂降りという意味らしい。猫と犬が喧嘩しているような雨、こんな日は窓辺で外を眺めるのが僕の習慣になっていた。ビル風が舞い、浅く溜まった道路の水を車のタイヤが押し退けて波を立てる。野良だった頃は雨が降るとその日一日はとても憂鬱だったのに、今ではどちらかと言えば好きになっていた。激しい雨が止んで、徐々に光が差して空が澄み渡って行くのが待ち遠しい。だけど、明け方から降り出した今日の雨は激しさを増して一向に止む気配がない。梅田方面の高層ビルの上空には稲妻が走り、肥後橋を渡る人は華奢な傘を盾にして仕事に向かっている。ご主人は運よく今日は休みなのだが、心配そうに外を見ている。野菜のことが気になるのだろう、金子さんが夏場に野菜が実割れしてしまうのは今日のような急な大雨のせいだと言っていた。乾燥が続いて雨が降ると、急激に根が水分を吸い上げて皮の成長が追いつかなくなって割れてしまうらしい。ベランダに並べられたプランターにも、夏場は霧吹きで水をやるようにしているご主人のことだ、自分が育てた野菜でなくともその苦労を知っていると胸が痛むのだろう。
ご主人は、この夏思い切った提案をしたらしい。長年悩みの種だった青果売り場の大幅改装だ。しかしそれは壁際の商品棚の老朽化が進み、その場しのぎで始めた陳列方法に過ぎなかった。古い商品棚をどかして通路の中央に朝市のような売り場を設けたのだ。参考にしたのは金子さんが持っていたフィレンツェの市場の写真だった。木箱に野菜や果物を並べ、カフェのテラス席に使うようなパラソルを立てた。売り方も変えて量り売りにすると、見栄えがしないものも分け隔てなく売れるようになった。その雰囲気が受けたのか、若いお客さんも増えたらしい。自分の代でお店を畳もうと思っていた福徳社長は「バブルが来た、光明を見たで」と言い、デザイン会社に就職した息子に跡を継がせようと説得しているらしい。パートのおばちゃんたちは「対面でやり取りしてると昔を思い出す」と言ってはしゃいでいるという。忙しくはなったが、充実している。腰に手を当てて熱いほうじ茶をすするご主人の背筋は伸びていて、頼り甲斐のある大人の男になっていた。
近くでまた雷の音がして、今日はこのまま雨は止まないのかもしれないと思ったとき、さっきの雷だと思っていた音が玄関のドアを叩く音だったと気がついた。僕が廊下に向かって走り出すと、ご主人がテーブルに湯呑を置いて後をついて来た。ドアを開けると。そこにはずぶ濡れになった彩弥ちゃんが立っていた。
「まさか彩弥? ほんまか? 久しぶりやなあ。どないしたんや急に」
「金子さん、いない?」
彩弥ちゃんは奥を気にしながらご主人に問いかけた。
「おらへんけど、どうやって上がって来たんや?」
「出て行く人がおったから入れ違いで入って来たの、お兄ちゃんシャツ貸して」
彩弥ちゃんにはオートロックなんてなんの役にも立たなかった。ご主人がじっくり物事を考えて行動するタイプの人間だとすると、彩弥ちゃんはまず行動してしまうような人間なんだなと思った。
「急にどうしたんや、こんな天気やのに傘も持たんと風邪ひくぞ」
「走って来たから邪魔やったの、白いワイシャツある?」
彩弥ちゃんはサンダルを脱いでぺたぺたと洗面台の前まで行き、着ていた白いワイシャツを脱いで窮屈そうなスポーツブラ姿になった。ご主人は仕方なく自分の部屋に入り、クローゼットの中を探りながら質問を続けた。
「なんで金子君がここにおると思ったんや?」
「昨日ここに来たら、今日ももしかしたら留守を預かるかもせえへんて言ってたから」
洗面台で濡れたワイシャツを絞りながら彩弥ちゃんは溜め息をついた。鼻を啜って鏡の中の自分を見つめる彩弥ちゃんの眼は、昨日とは違う苛立ちを感じさせた。




