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僕はご主人の部屋のクローゼットに入って考えを巡らせていた。
金子さんの八○八と書かれたメモ帳、あの数字にはどんな意味があるのだろう。自分のことを単純だと言う金子さんのことだ、素直に考えると八百八冊目のメモ帳ということなんだろう。書いていた内容は文章というよりも箇条書きだった。昨日の夜、そして石井さんが帰った後、そして彩弥ちゃんが帰った後にメモを書いた。そんなメモを今まで八百八冊も書いてきたのか、どうしてそんなことをしているのか、また謎が増えてしまった。
ご主人は今までつくった料理のレシピをパソコンで管理している、材料、分量、調理時間、金子さんの一言アドバイス、そして仕上がりの写真を添えて食材別のフォルダーにまとめられている。最近では余った食材があれば自分のパソコンに入っているレシピを見て、すぐに夕飯をつくってしまうようになっていた。自炊を始めて一年半もすれば、こんなに変わるものかと感心してしまう。そしてご主人の資料は料理だけにとどまらず、ハーブの育て方や野菜の成長記録なども事細かにまとめられていた。「食べ物の話は誰とでも共有できる」金子さんの言葉は偉大だった。藤田動物病院や職場のスーパーでも、ご主人は食べ物の話をして人との距離を近くすることが出来るようになったという。それはとても大きな変化だった、以前の不安気な表情のご主人は見ることが少なくなり、体格に相応しい落ち着いた雰囲気を漂わせるようになっていた。
僕のお皿にごはんが入れられる音が聞こえたので、廊下に頭を出すと金子さんがキッチンの戸棚を閉めているところだった。西日がリビングに差し込んでテレビの画面になにが映っているのかはっきりとはわからくなっていた。気温が下がって遠くから蝉の声が聞こえ始め、夕暮れが近いことを知らせていた。
金子さんは水で濡らした手拭いを絞って首に巻くと、トートバッグを持ってぺたぺたと玄関へ向かった。ひょうたんのように爪先が丸まったサンダルを履くと、背を向けたまま「ポチ、他言無用やで」と言い残して出て行った。猫の僕が人に何を話せるというのだろう、と思ったが、まるで人間のように対等な扱いをしてくれる金子さんのことが、僕は好きだった。
ご主人は八時過ぎに帰って来た。金子さんのお店に寄って、鍵と夕飯のおかずを受け取ってきたのだろう。冷蔵庫に見慣れないタッパーを入れてから僕を撫で、お風呂に入った。タンクトップ姿のご主人の二の腕はたくましい。着ている服が変わるだけで、男らしさに磨きが掛かった感じがする。七階だと、大阪市内でも夏の夜は扇風機や冷房がなくても快適で、たまに聞こえるスポーツカーのけたたましい排気音さえなければ優雅なものだった。
疲れているだろうからと、金子さんが持たせてくれたおかずはやはりプロの技が光っていた。ひき肉と大葉の蓮根のはさみ揚げは大きさが揃い、ほどよくまぶされた片栗粉が全体を包んで噛んでも形が崩れることはなかった。万願寺とうがらしとフルーツトマトのバーニャカウダを食べてご主人は珍しく二本目の缶ビールを冷蔵庫に取りに行った、お酒が進んでしまう味だったのだろう。そして生姜が香る茄子の煮びたし、斜めに入れられた切込みは機械で切られたように等間隔で、出汁をたっぷりと染み込ませている。一口食べる度にご主人は膝を叩いて箸を躍らせていた。徹夜ではなかったにしろ、帰宅してお米を炊くのは疲れるだろうと金子さんが持たせたお酒のアテは、流れるようにご主人の口の中に消えて行った。グラスの中で溶けていくビールの泡を見つめて、ご主人は「うまかったあ」と呟いた。




