3
梅雨が明けて間もない七月の終わり、公園に少し籠ったグローブの音がする。
「じゃあちょっと飲み物買ってくるわ、何がいい?」
首に巻いたタオルで額の汗を拭き、ご主人はズボンから小銭入れを取り出した。
「紅茶以外やったら何でもいいわ」
金子さんはそう言うと、脇腹にグローブをはめている左手の甲を押し当てて大きく息を吐いた。
「あかん、あっついわあ。俺のお尻から棒出てへん? 自分がアイスクリームになってる気分やねんけど」
「出てへんよ。金子君は冬は冬でめっちゃ寒がるのに、夏も大変やね」
「こんなに汗かいてたら、俺んとこだけゲリラ豪雨降ったんちゃうかって思われへんかな?」
「それはないと思うけど、そうやって木に抱きついてると、みんな何してんのか気になって見てるで?」
「こうやってると冷やこいねん。好きでやってんとちゃうんよなあ」
「じゃあやめたら? 二人組のOLさんが金子君見て笑ってるで?」
「シャワー浴びて着替えて戻って来るまで待っててくれへんかなあ、せめて溶けてないアイスに戻ってから出会いたい」
「昼間からなに言ってんの」
「昼間やからまだ笑ってくれてんやろ? 夜中にこんなんしてたら通報される」
「共犯にされたくないから買ってくるわ」
「証人尋問には出廷してや、俺自分の証言に自信ないから」
ご主人は背を向けて手を振ると、そのまま公園の外へ歩いて行った。
金子さんはご主人と同じ大学に通っていたのだが、途中で辞めてしばらく海外を放浪していたらしい。ご主人よりも背は少し低く、いつもつま先がヒョウタンのように丸まったサンダルを履いている。本人は目立つのが嫌いで裏方に徹しているつもりなのだが、どうしても人に注目されることが多いのだという。
ある日、金子さんが電車に乗ると座席の真ん中しか空いておらず、仕方なくそこに座った。すると先に座っていた乗客が駅に停まる毎に次々と降りて行き、本を読んでいた金子さんはそれに気づかずに一人取り残されていた。そして次の駅に着き、扉が開いて入って来た人が、どうしてこの人は席がこんなに空いているのにわざわざ真ん中に座っているんだろう、という戸惑いの眼で金子さんを見た。こんな話がいくらでも出てくるのだが、僕は金子さん本人にも原因があると思っている。
彼は土佐堀橋の袂にあるフレンチビストロの店長をしているが、元はイタリア料理のシェフだった。なのに「今はスペイン料理が面白い」だとか、その前は「テクス・メクスが俺を呼んでいる」とか「もう酢飯と俺を一緒に握ってほしい」と言っていたこともあった。この人には、人を笑わせてやろうとか、典型的な大阪人のボケをかまそうという気持ちは毛頭ない。下手なお世辞も言わないし、とぼけていながらも頭の回転が速いのがわかる。つまり、彼は本心でそんなことを言っているのだが、言動が独特なので謎が増えるばかりなのだ。金子さんが「注目せんとって」と言っても、それは無理な話だと思う。
ご主人は彼を親友と言うけど、僕にはまだ金子さんの言葉が難しくてよくわからないことが多い。しかし、金子さんと僕の距離はすぐに縮まった。僕の知らないご主人の話をしてくれるからだ。
金子さんはご主人と比べると髪が長いし、たっぷりとある。彼は頭の後ろで結んでいた髪をほどき、手櫛でざっくりとその髪を窮屈さから解放させた。横から見ると、彼の髪は顎の先くらいまで垂れていて、真っ直ぐではなく自然なウェーブがあり、その隙間からすらっと伸びた鼻筋、切れ長の小さい眼の上からは絵筆のような長いまつ毛が見える。下向きに生えているせいで、いつも気怠そうな顔をしていると感じてしまうのだが、たまに眼が合うと買いたての画用紙のような白目の中にある鋭く茶色い瞳に気圧されてしまう。
やっと木から離れた金子さんは、シャツの襟元をつまんでパタパタと風を送りながら僕が乗っている自転車の横にあるベンチに腰掛けた。僕が自転車のカゴから少し身を乗り出して金子さんの表情をもっとよく見ようとすると、さっきまでご主人と話していたときとは違う、低く湿った声が聞こえた。
「ポチ、元気か?」
思わず身体が固まってしまう。見えてるいのか見えていないのか、それよりも心を見透かされているように感じた僕は、ナナフシみたいにゆっくりと、動いているのがバレないようにカゴに敷いてあるタオルの上にお尻を戻した。




