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彩弥ちゃんは金子さんの言葉を聞いて下を向き、強く、強く眼を瞑った。僕は彩弥ちゃんの髪の毛が石井さんくらいの長さがあればよかったのに、と思った。そうすればもう少しだけ、後悔が滲み出た表情を隠すことが出来たのに。
「金子さんは、いつまでここにいるんですか?」
精一杯の切り替えしだった。もちろんそれは訊きたかったことだと思うけど、彩弥ちゃんが本当に言いたかったことではないと、僕には思えた。
「どうかなあ、とりあえず今日は四時には自分の店行かなあかんねんけど、もしかしたら明日も来るかもせえへん。どっちにしろ純からまた連絡来るの待つだけやけどね」
「お店に電話掛かってくるんですか?」
「うん、いつもそんな感じかな」
「じゃあ今でも携帯とかスマフォとかは」
「持ってないねん」
「不便じゃないですか?」
「そうでもないよ、まあ変な顔されることはあるけどね」
「でもあったらあったで便利ですよ? いつでも調べものとか出来るし、いろんな予約とか割引とかも使えるし。それに持ってなかったら緊急で連絡取れないじゃないですか」
「そうなんやろなあ」
僕はご主人の言う、人を寄せ付けない雰囲気の金子さんを感じる瞬間が、最近になってやっとわかるようになってきた。今がそうだった。少しだけ視線を下げて違う世界を見ていた。そして瞬きをすると、いつもの金子さんに戻るのだ。
「でもそんだけ色んなことが出来たらどんどん一人になってまいそうでさ。ずっと画面見るようになるんちゃうかって、ちょっと怖いんよ」
僕の頭の中に小百合ちゃんの姿がよぎった、いつも手にはスマートフォンが握られていたし、ご主人との会話よりも画面を見ていることのほうが多かった。そして僕を撫でるよりも画面をなぞることのほうが多かった。
「たぶん、金子さんはそんなことにはならないですよ」
彩弥ちゃんは少しはにかんだ笑顔でそう言った。自分の言葉に根拠がなかった、彼女はそれをわかっていた。本当に言いたいことを、また、言えなかった。
「じゃあ、私帰ります。ごちそうさまでした」
「うん」
彩弥ちゃんは雑誌を丸めて握り、玄関へと歩いて行った。金子さんがその後ろをぺたぺたとついて行き、彩弥ちゃんがスニーカーを履いて振り返ると二人の距離はとても近く、お互いの体温が感じられるような間合いだった。
「忘れ物ない?」
「大丈夫です、見つけました」
彩弥ちゃんはそう言うと、後ろに一歩下がり軽く頭を下げた。そしてそのまま後ろ向きでドアを開けて隙間に滑り込むように出て行った。金子さんはリビングに戻ってくると座椅子に座ってしばらく天井を見上げていた。そしてトートバッグに手を伸ばして例のメモ帳を取り出した。僕はどうしてもそのメモ帳が気になり、テーブルに前足を掛けて表紙を見てみると、八〇八という数字が書かれているのが見えた。どこにでも売っていそうな片手に収まる大きさのメモ帳だった。金子さんがボールペンを取り出してテーブルの上に置くと、なにも書かれていないページを開いて腕を組んだ。なにかを考えている。そしてボールペンを握ると、メモ帳に彩弥ちゃんの名前と彩弥ちゃんが持ってきた雑誌の名前、そして小百合ちゃんの名前、ジャック・レモン、一緒に食べた、とだけ書いた。
「ポチ、あんまり褒められた趣味とちゃうなあ」
金子さんは左眼を細めて右の眉を上げ僕を見ていた。金子さんに見つめられて声を掛けられたことがなかった僕は身動きがとれなくなってしまった。怒ってはいないのだろうが、その鋭い眼差しから逃げることが出来なかった。トートバッグにメモ帳とボールペンを入れて金子さんがまた腕を組むまで、自分の身体が石膏かなにかでコーティングされているかのような気分だった。




