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湯気の中  作者: 三波直樹
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「なんか、酔っ払いそう」


「日本のはどうしても控え目なのが上等とされてるけど、こんくらいがつんとアルコールを効かせんと物足りんくてね」


 雨に濡れたビルの窓が細かく輝いて眩しかった。こんなに幸せそうにものを食べる人間を、僕は初めて見たと思う。人は感染する生き物なんだ、それが金子さんの口癖だった。同じものを食べていれば人は似てくると言っていた。怒っている人と一緒にいれば自分も嫌な気分になってくる、でも自分がその人より楽しくしていれば、その気持ちは感染することもあるという。でも、現実はそう単純に出来てなんかいない。影響を与える人がいて、影響を受ける人がいて、結局は強いもの、大きいものに巻き込まれていく。それでも人は誰かの真似をして生きることは出来ないらしい。「結局人は自分の生き方しか出来へんもんなんやよ」僕には金子さんのその言葉が矛盾しているように思えて、正直な人だとも思った。


 こうやって彩弥ちゃんと金子さんを見比べると、金子さんの見た目の若さがよくわかった。髭を剃ってしまえば、二人が同じ年齢だと言われてもなんら違和感を感じることもないだろう。


「金子さん」


「ん?」


「私その映画見てみたい」


 彩弥ちゃんはすっかりジャック・レモンのとりこになっていた。


「俺もまた見たいんやけどさ、DVD化されてないんよね」


 そう言うと金子さんはキッチンへ空になったグラタン皿を持っていき、洗い物を始めた。彩弥ちゃんが物悲しそうに僕を撫でているのを見て、手拭いで手を拭き終わると金子さんが口を開いた。


「ロゼッタストーンって知ってる?」


 金子さんの魔法の詠唱が始まったと、僕は思った。こうやって全く関係ないことを口にして、人の気持ちを吸い寄せてしまう。それは老若男女問わず、誰でも耳を傾けてしまう不思議な力があった。

だけど、彩弥ちゃんはほかの人とはどこか違った。


「大英博物館に展示されてる古代エジプトの象形文字を解読する手掛かりになった石板のことですよね」


 彩弥ちゃんは金子さんの話をただ聞くだけではなかった。その姿は、この魔法使いの不思議な力を必死に解き明かそうとしているように思えた。


「そう、ナポレオンがエジプト遠征に派遣した部隊がナイル川近郊にあるロゼッタで発見した、古代エジプト語の神聖文字ヒエログリフ、民衆文字のディモティック、そしてギリシア文字で同じ内容が書かれていたから古い文字を解読することが出来たわけやんな。色んな人がその解読に挑戦したけど、有名な二人は知ってる?」


「確か一人はイギリス人で、もう一人はフラン人でした」


「そう、イギリスのトマス・ヤング、それにフランス人のジャン=フランソワ・シャンポリオンが多大な貢献をしたと言われてる。どっちのほうが凄いか、今でも研究してる人の意見は違うこともあるらしいんやけど、ヤングとシャンポリオンの考え方が大きく違うところがあったらしい」


「どんなところですか」


「ヤングは全ての文字には音があると思ってた、だからヤングはその文字の音を探してたんやけど、その文字を入れると文章がおかしくなってしまう。シャンポリオンはその文字は音が無い文字として捉えた、ほんなら読めたんよ、自然と無理のない文章として。だから彩弥ちゃんも、今すぐに全てを知ろうとせんでもええんちゃうかな」


「金子さんはシャンポリオン派なんですか?」


 彩弥ちゃんはどこか納得がいかないようだった。


「そういう考え方もあるかなって思っただけ」


「今の話を聞いて私はヤング派です、きっとその文字を書いた人には意味がちゃんとあったと思います、だから書いたと思いませんか? 金子さんの言いたいことはわかります、でもそれは経験したことがある人の意見です」


 彩弥ちゃんは真っ直ぐな人だった。若くて好奇心があって、金子さんと対等に会話することが出来るだけの知識や理解力もあった。金子さんが音のことを話しているのに、自分は文字の意味の在る無しに固執してしまっていることもわかっていただろうし、焦らなくてもいい、と言ってくれている金子さんの優しさにも気づいていた。それなのに、自分の気持ちを抑えることが出来ずに言葉をぶつけてしまったことで、金子さんとの間に小さい溝が生まれてしまったことを感じてしまうほどに繊細だった。


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