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「俺が人の気持ちなんかわかるわけないやんか、だから聞いたんやよ」
本当だとも思うし、限りなく嘘なんじゃないかとも思った。今の金子さんを例えるなら、川の中にある杭や岩だろう。小百合ちゃんに対して怒っていた彩弥ちゃんの気持ちの流れを、勢いを止めることなく、眼の前の自分に向けさせた。ご主人にこの雑誌を見せても、良いことなどなかっただろう。それを止めるのではなく咎めるのでもなく、受け入れて、違う世界へ連れて行ってしまった。
「彩弥ちゃんて昔から人の気持ち突っつくようなことするけど、なんでなん?」
「わからないことがあると知りたいだけです、金子さんはわからないことが多過ぎるんです」
「こんなに単純やのに?」
「なに言ってるんですか、複雑過ぎます」
「ほらまた突っつく。少し、とかちょっと、とか副詞を付けんと丸くならへんねんで?」
「大学辞めて海外行って帰って来たらソーラーパネルの営業、トラックドライバー、料理の専門学校行ってイタリア料理店で働いて、次はフレンチまたイタリアン、休みの日は始発に乗って京都の割烹で仕込み手伝って突然いなくなったと思ったらイタリアから帰って来てお店出したらフレンチビストロって、なんなんですか?」
「よく覚えてるなあ、昨日はラム餃子つくったんよ」
「中華じゃないですか」
「せめてオリジナルって言うてくれへんかなあ、評判良かったんやで?」
彩弥ちゃんはまた口を尖らせて眼を細めた。十年同じ職場で働くご主人と比べれば確かに単純とは言い難い経歴だった。そして金子さんは彩弥ちゃんをこのまま帰らせるつもりはなかった、小さな幸せを味わわせたのだ。
「小腹空いてない? よかったらおやつがあるんやけど」
「金子さんがつくったものですか?」
「うん」
「じゃあ、食べます」
金子さんが立ち上がってキッチンへ向かった、彩弥ちゃんは僕を引き寄せてむっちりした太腿に乗せた。座り心地が良かった。冷蔵庫からビニール袋を二つ取り出して金子さんはテーブルにグラタン皿を置いて「ちょうどいい深いお皿がこれしかなくてね」と言って一つ目のビニール袋の中身をお皿に出した。冷たいシロップに浸かったマフィンのようなものが一つだけ横たわっている。それをナイフで半分に切り、もう一つの白いビニール袋の底の端を少しだけ切り取ってクリームを絞り出した。そしてベランダで育っていたミントをちぎり、水を絞った手拭いに挟んで軽く叩いた。手拭いを開くと、爽やかな香りが部屋に広がった。
「なんですかこれ?」
「不細工やろ? 俺のお気に入りやねん。夏になると必ずつくるメニューなんよ。うちではジャック・レモンて名前やねんけど、本当はナポリ名物のババっていうドルチェ、フランスのサヴァランやね。さあ食べよ、大きいのと小さいのあるけど、どっちがいい?」
「大きいほう」
彩弥ちゃんが即答すると金子さんはフォークで小さいほうのババを三分の一程度切り分け、にこにこして口に放り込んだ。切れ長の眼がしわくちゃになってほっぺが上がるおいしさなのがわかる。それを見て、彩弥ちゃんもフォークで大きくカットしたババを口に入れた。眼を輝かせて、彩ちゃんの頬もハンガーを口に入れたように引き上がった。
「本当はラムのシロップに浸けこむんやけど、リモンチェッロっていうレモンリキュールを使ってるんよ」
「それでジャック・レモン?」
「マカロニっていう映画があって、マルチェロ・マストロヤンニとジャック・レモンて役者が出てて、その映画が好きでね。もちろんその二人も映画の中でナポリの街を歩きながらババを食べるんよ、今の彩弥ちゃんみたいに口の周りにクリームをつけて」
彩弥ちゃんは気にせずフォークでカットした残りの半分を口に押し込んだ。冬眠前のリスのように膨らんだ頬ははち切れそうだった。それを見た金子さんは自分の残りを右手を差し出して彩弥ちゃんに勧めた、すると彩弥ちゃんはまだ口の中にさっきの一口が残っているのに急いでそれを押し込んで満足そうだった。どうやら彩弥ちゃんは遠慮をしない人らしい、金子さんも食べさせた甲斐があるだろう。




