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「あっ」
彩弥ちゃんと僕の眼が合った。
「おう、今気づいた?」
「この子がポチ?」
彩弥ちゃんの眉間には、また深い皺が寄っていた。僕は動けなかった。テーブルの上で横になった彩弥ちゃんの顔は、髪の毛の色と対比して陶器のように白く、浮き出た細かい汗をくまなくはじいていた。琥珀よりも深い色、褐色のトルマリンみたいにとても綺麗で、切ない眼をしている。
「金子さん大丈夫なんですか? 猫アレルギーでしょ?」
「うん、まあ痒いけどね。たいしたことないよ」
ご主人は知っていたんだろうか、初耳だった。
「兄は今日、仕事ですか?」
「うん。連絡せんと来たの? 昨日から泊まりやから俺がポチの餌あげに来たんよ」
彩弥ちゃんの顔はテーブルの上で横になったまま僕のほうを見ていた。金子さんが麦茶を継ぎ足して、ガラスピッチャーの蓋を閉めるまでずっと僕を見ていた。
「純に何か急用でもあったん?」
彩弥ちゃんは右手にずっと握り締めていた雑誌をテーブルの上に置いた。
「二十一ページです」
彩弥ちゃんが持ってきたのは女性用のファッション誌だった。金子さんはぺらぺらとページをめくり、手を止めた。
「彩弥ちゃんどこにも載ってないで?」
僕から見ても、彩弥ちゃんがモデルをしていると言われればそれはそれで違和感はなかった。冬の服装が似合うだろう、長いコクーン・コートを着て顔の半分をマフラーにうずめて視線を向けられれば、立ち止まってしまう人も多いだろうと思った。
「左上の女性です。金子さん見覚えないですか」
小百合ちゃんの姿が、そこにあった。外には重い雲が広がり、部屋の電気を点けなけれは文字を読むにも苦労しそうなくらい暗くなっていた。
「立川小百合、二十九歳、東京在住って書いてます。兄とポチを捨てた人です。知り合いのカメラマンさんから名前を聞いて確認したら、本当でした」
「元気にしてるんやなあ」金子さんの反応はとても薄かった。
「それだけですか?」
「そういやさ、兄妹でダブルデートして俺んとこに食べに来くるとかって話あったなあ。純が小百合ちゃんと別れて流れてしもたもんなあ。雅史君やったっけ? あの子」
「別れました」
「浮気されたん?」
「兄から聞いたんですか?」
「いや、なんか贅沢すんのが好きそうな子やなあとは思ってたけどね」
「そんなことよりなんで金子さんはいっつもそうやって落ち着いてられるんですか? 私、小百合さんのこといい人やと思ってました。年齢の割にちょっと禿げてて、ちょっと頼りなくて、でも優しい兄がやっと幸せになれるって思ってたのに。むかつくんです、自分だけ楽しそうにこうやって笑ったりされると、その陰でお兄ちゃんが悲しんでるのに自分は媚売って幸せになろうとしてるんですよ? 猫と暮らしてて自炊もしてるってお母さんから聞いて、このままやったら、兄はずっと一人でいるかもしれへんのに」
彩弥ちゃんのことはご主人から何度か話を聞いたことがあった。十歳近く歳の離れた兄妹は喧嘩をしたこともなったという。両親が忙しいときはご主人が彩弥ちゃんの面倒をみて、週末の野球の練習試合には必ず彩弥ちゃんの姿があったらしい。人間の結婚適齢期は晩婚化してきているとはいえ、三十半ばで独り身ともなれば心配になるのもわかる。ご主人は金子さんとは違い年相応の見た目だし、仕事以外では金子さんとのキャッチボールを除いて外出する機会も少ない。ガーデニングに勤しんで、上達していく料理の腕前に満足して、この家での生活を楽しんでいるのは確かだった。小百合ちゃんの部屋だった空間は未だに空っぽで、掃除をするときだけご主人がそのドアを開ける。入口でフローリングワイパーを持って一瞬立ち止まる姿を見ると、僕も胸が痛くなる。今思えば、どうして引っ越さないでいるのかが不思議だった。お金もあるだろうし、もう少し家賃が安いところに移ってもいい頃だろう。荷物を移動させるのが億劫に感じるような人ではない。でも、どうしてご主人がこの家に住み続けるのか、僕はわからなくなってきていた。




