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玄関のドアを強く叩く音が響いた、それは大きく育った怪しい入道雲が近寄り、嵐の到来を告げるような音だった。
「ん? 純は人気者やなあ。またお客さんか」
金子さんがぺたぺたと廊下を歩いて行き、ドアを開けるとそこには女の人が立っていた。短髪で黒髪、黒いTシャツの右肩から白いラインが一本真っ直ぐ下に伸び、裾の位置までプリントされている。履いているズボンも黒く、スニーカーだけは真っ白だった。そして、右手には丸められた雑誌が握られていた。
「おう、彩弥ちゃんか、どうしたん?」
「えっ? 金子さん? お久しぶりです」
深々と頭を下げたその人は、ご主人の妹の彩弥ちゃんだった。僕はこのとき初めて会ったのだが、どこか胸騒ぎを感じていた。一瞬男の人にも見えたのだが、大きく輝いた眼と、上下の唇を強く噛んで、頭を上げても金子さんの顔を直視できなかったので女性だと確信した。
「暑かったやろ? さあ上がり」
「はい、お邪魔します」
僕はさっき慌ただしくドアを叩いていたのは別の人だったんじゃないかと思った。肩をすくめて恥ずかしそうに廊下を歩く彼女は幼く見えた。身長は金子さんとそこまで大きくかわらないだろう、金子さんの眼か、眉の辺りに彼女の頭の先があった。
「今、冷たいお茶入れるから奥に座り」
「はい、座ります」
金子さんがシンクでグラスを洗っている間も、彩弥ちゃんは眼の前のテーブルを見つめていた。二人は面識があるはずなのに、彼女はさっきの石井さんよりも緊張しているように見えた。
「彩弥ちゃんとはいつぶりかなあ」
「七年ぶりです、金子さんがイタリアから帰ってきたときに」
「七年? そんなに経つか。そしたら今は」
「二十三になりました」
金子さんがテーブルにグラスを置いて向かいに座っても、彩弥ちゃんはテーブルの一点を見つめていた。もちろんそんなことは金子さんも気がついていたが、特に気にしている様子はなかった。昔から彩弥ちゃんは金子さんに対してこういう態度だったのだろうか。
「金子さんは変わらないですね。昔と、全然変わらない」
「そう? 彩弥ちゃんは会う度に変わるなあ、今のところ見た目だけね」
「中身も変わりました。お茶いただきます」
「どうぞ」
彩弥ちゃんが一気に麦茶を飲みほし、それを見た金子さんが右手をテーブルに置いて冷蔵庫へ向かおうと立ち上がった瞬間、彩弥ちゃんの左手が金子さんの右手首をしっかりと掴んでいた。マンションの下で突然始まった道路工事の作業音が耳障りだと感じ始めるまで、二人の時間は止まっていた。
分厚いアスファルトを掘削する振動までは伝わってこなかったが、テーブルと水平に向かい合わせになって下を向いた彩弥ちゃんの表情を見て、僕には彩弥ちゃんの気持ちが伝わってきた。それは後悔だったと思う。掴むつもりはなかったのに、掴んでしまった。手を離せば、なぜ掴んだのかを説明しないといけなくなる。でも、その言葉が見つからない。
「ありがとう、でも俺時計せえへんからサイズ測っても意味ないで?」
金子さんの助け舟がなければ、彩弥ちゃんはずっと息の出来ない水の中にいたことだろう。彩弥ちゃんの顔は、岸辺に辿り着いて、その大地の存在を確かめるかのようにテーブルに突っ伏していた。
「やっぱりそうなんですね。似合いそうなの見つけたんですけど、買わんくてよかった。金子さん手首細いから、買ってから腕時計のベルト調節するのが面倒なんでしょ? 太ってないか確認しただけです」
「中年太りしてもいい歳やしなあ。たまに純と運動してるから大丈夫やと思うけど。それよりさ、乳首の色素沈着? 気がついたらちょっと茶色くなっててさ、見てくれる?」
「今はいいです」
「つれない返事やなあ」
金子さんは苦笑いを浮かべてキッチンへ向かう。力が抜けた彩弥ちゃんの左手の指は、金子さんの手の甲から指先へと滑って行く。二人の指先が離れてしまったとき、まるで自分の身体の一部を引き剝がされたかのように、彩弥ちゃんは眉を強くひそめた。




