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「どうして、そんなことまでわかるんですか?」
石井さんは顔を赤らめて魔法使いに訊ねた。
「これでも君よりは長く生きてきたつもりやよ」
その見た目からは想像出来ないくらいの年月を重ねた瞳は、なぜか哀愁を帯びていた。
「それだけで、わかってしまうものなんですか?」
石井さんはどうしても金子さんの瞳を見ることが出来なかった。
「どうやろね、ただ、溢れてしまっているのかもせえへん。でも、無理に隠すことはしなくていいと思う。湊子ちゃんはそのままでいいと思うよ」
その言葉を聞いても、ずっとうつむいたままの石井さんを見ると、魔法使いは右手を前に伸ばして人差し指を一本立て、石井さんにこう問いかけた。
「じゃあ、今よりもっと素敵な女性になる秘密を一つ、聞きたい?」
それはもう、呪文だった。
「もちろん、聞きたいです」
石井さんは遂に魔法使いと眼を合わせてしまった。流調な大阪弁を話す魔法使いはやさしい微笑みを浮かべ、指を上に向けたまま手を開き、五本の指を石井さん眼の前に広げた。
「焦らずに、待つことやよ」
「はい」
魔法使いがグラスの麦茶に手を伸ばし、一口飲んで左の眉毛を軽く上に動かした。それを見て、石井さんもグラスに手を伸ばして一口飲むと、遠くから蝉の鳴き声が聞こえてきた。冷たい麦茶を飲んだからなのか、それとも魔法にかかってしまったのか、石井さんの表情は和らぎ、瞳には不安の欠片すら映っていなかった。
「金子さんはどうしていつも一人なんですか?」
「いつも? 村田がそう言ってたん?」
「はい、人を惹き付ける人やのに恋人がいないって言ってました」
「そうやなあ、身勝手なエッチするからなあ」
「そうやって踏み込みにくいこと言って話題を逸らすとも言ってましたよ。動物病院勤務なんですからその程度じゃ怯んだりしないですよ私」
石井さんが口を尖らせて膨れた顔を見せると、金子さんは床に膝をついて上半身を起こし、ベルトに指を掛けた。
「じゃあ相談したいんやけど、俺のちょっと変わってるんちゃうかと思ってさ」
「そこは見せないでください!」
「えー? でもこの悩みを解決せんと相手も何も」
「専門外です! お医者さんに診てもらってください!」
今度は金子さんが口を尖らせてしょぼくれてしまった。さすがの魔法使いも自分のことは思い通りにいかないこともあるのだろうか。
「村田さんは今日は遅くなるんですかね?」
「さあどうやったかなあ、遅番って聞いてるから俺のみたいに長くなるかもね」
「金子さん? まだします? その話」
「だって病院苦手なんよ、陰気やんかあ、あそこに集まる人ってさあ」
「それはみんなどこかが悪くて直しに行くんですからハッピーな人なんていないですよ」
「そんなん俺の見てへんのに勝手に悪いって言わんとってえや、医療従事者でしょ? 今の傷ついたわあ、今までそう思われてたんかなあ、まさみちゃん不安やったんかなあ」
「ごめんなさい、大丈夫かどうか確認する人もたくさん行くんです。だから金子さんは大丈夫だと思います」
「根拠は? その『だから大丈夫』っていう根拠はどこから来たん?」
「私もう用事が済んだので帰りますね」
「このまま俺を見捨てて行くん? こんな状態で?」
「じゃあポチまたね、お邪魔しました」
笑顔で手を振って石井さんは帰って行った。たった三十分程度でこんなにも僕やご主人が見たことがない石井さんの姿を引き出すとは驚いた。座椅子をひっくり返してフローリングに倒れ込んでいる金子さんには、数分前の魔法使いの面影は微塵も感じられなかった。ごろんと仰向けに姿勢を変えた金子さんは、トートバッグをあさって中からメモ帳とボールペンを取り出すと、またなにかを書き始めた。少し書いては両腕をだらりと広げて床に垂らして天井を見つめている。そしてまたいくつか文字を書いては両腕を広げて垂らした。それが終わるとあぐらをかいて起き上がり、僕を見て呟いた。
「男と女が同じ部屋に長いこと一緒にいるとロクなことにならへんからな、今の演技やと臭過ぎてオスカーは持ち越しやな」
どこからどこまでが演技だったのか、僕にはわからなかった。ご主人が言うように彼がなにを考えているのか、どこまでのことを考えているのか本当にわからなくなってしまった。少なくとも彼はご主人の親友で、料理人で元高校球児で大工なのだ。石井さんにとっては魔法使いの役者だということになる。この次はいったい何になるのだろう。




