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「奥へどうぞ」
「はい」
金子さんが右手で窓側の座椅子を指し示すと、導かれるように石井さんの足が動いた。石井さんが座るのを見ると、金子さんは石井さんに僕を預けた。そして金子さんはご主人の部屋へ入って行き、まるで在る場所を知っていたかのような早さで僕の爪切りを持ってきた。
「お願いします」
「はい、あっありがとうございます」
石井さんはまだ困惑している様子で、受け取った爪切りを手に持ちながら僕を見ていつもより小刻みに瞬きをしていた。
「村田の職場のバイヤーが夏風邪をひいて昨日から休んでいるみたいなんですよ、それで村田が代わりに市場へ行かないといけなくなったんで僕が留守を預かっているんです。村田から何度かあなたの話を聞いたことがありまして、せっかくご足労いただいたのにあのまま帰られるのもどうかと思いまして」
安心した、詳しくはわからないけどご主人は生きていたのだ。そんなことよりも今は金子さんの口調が気になって仕方がない。お店ではいつもこうなのだろうか、耳の後ろが痒くなってしまう。
「そうだったんですか、でも、私勝手に部屋に上がってよかったんでしょうか?」
「僕に鍵を預けたんですから、大丈夫ですよ」
金子さんの答えは石井さんの質問に対して一切関係がないものだった。しかし、石井さんはそんなことに気がつくことはなかった。冷蔵庫から麦茶を取り出そうとしている金子さんを呆然と見ているだけで、疑問を感じることはなかった。病院の受付に座っている彼女とは違い、自ら望んで来たはずの新大陸で原住民ではなく中途半端な格好のギャルソンが麦茶を注いでいるのだ。普段通りでいられるほうがどうかしているのだろう。薄いコルクのコースターをテーブルに置き、冷たい麦茶の入った汗をかいたグラスと、水で湿らせた手拭いを金子さんがテーブルに置いて、石井さんの向かいの座椅子に座った。
「都合が悪くなければ少し話しませんか? 気が紛れてポチの爪切りもやりやすくなるかもしれないですよ?」
金子さんは笑顔ではなく、本当に少しだけ左の眉と口の端を上げてそう提案した。
「そうですね、そうします。はい」
「藤田動物病院といえば、確か靭公園の北辺りでしたよね、今日は休診日ですか?」
「はい、そうなんです。水曜日がお休みなので、はい」
「石井さんの生まれは確か和歌山でしたよね、今はどちらに?」
「港区です、大阪に来てからはずっとそこに住んでます」
「ということはバス通勤ですか、それとも自転車で?」
「自転車です、今日もここまで来るのにも自転車です」
金子さんはここで質問をあえてとめたんだと思う。一定のテンポで進んでいたやり取りに一瞬の沈黙をつくり、ここで攻守交替になる。
「インターホンではどうしてあんな声をつくっていたんですか?」
「村田が風邪をひいている体で話ました、とにかく上がって来てもらわないとポチの爪切りもしてもらえないだろうと思ったからです」
「えっと、その、金子さんてかなり若く見えますね、村田さんと同じ歳だと今年で三十四歳ですよね?」
石井さんの話すリズムが早い、まだ緊張しているんだろう。それを金子さんは優しく先導するようにゆったりとした口調で返事をした。
「いつも年齢を言うと驚かれます、ちなみに、いくつぐらいに見えますか?」
「そうですね、うーん。二十六とか七ぐらいですかね、髭がなければもっと若く見えるかも」
「男は若く見られるとあんまり良いことがないんですけどね」
「どうしてですか?」
「貫禄がないんですよ。三十半ばにもなって、初対面の人には子ども扱いされますからね」
「そうなんですか、それはそれで困るんですね。じゃあ、嫌な質問していいですか?」
「どうぞ、どんなことでも大丈夫ですよ」
「じゃあ、私はいくつぐらいに見えますか?」
「釣鐘型のDカップじゃないかな、それにやわらかそう」
「そこじゃないです! 見た目です!」
「うん、だからDかな」
石井さんは僕を抱き上げて自分の胸を隠して赤くなっていた。そのときテレビの画面にはゴリラの貴重な交尾の映像が流れていた。




