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それは静かな戦いだった、囲碁や将棋よりも音の無い頭脳戦だった。僕は猫だ、こちらから話を振ることは不可能だ。ご主人から常々「金子君普段は無口やから」と聞かされていたのだが、想像を遥かに超えていた。腕を組み、瞼を閉じてはいるが金子さんは眠ってはいない。かれこれ二時間はこの状態でいるのだが、たまにペンを手に持つと、いくつかの文字を書いてまた腕を組んで瞼を閉じる、それを繰り返しているのだ。外は薄っすらと明るくなりつつある。僕は肉弾戦に切り替えて金子さんの太腿に体をすり寄せたが、二、三回僕の頭を撫でるとまた腕を組んでしまう。恐る恐る膝の上に飛び乗ると、また二、三回僕を撫でて腕を組むのである。
目が覚めるといつの間にかテレビは消えていて、金子さんは腕を組んで瞼を閉じたままだった。僕が起きたことに気がついた金子さんは「テレビ点けよか?」と言ってリモコンを手に取り電源を入れた。画面の右下に十時十四分という表示が見えた。僕は金子さんの膝から降りると自分の毛並みが妙に整っていることに気がついた、僕が眠っている間にも金子さんは僕を撫でてくれていたのだろう。きっとご主人は大丈夫だ、どこかで生きているに違いない。ご主人にもしものことがあったのなら金子さんだって平気な顔をしていられないだろう。人間は死ぬと葬式をする、そこには家族や友人が集まる、それなら金子さんがここにいるのはおかしいだろう。どんなに考えていることがわからない金子さんでも、待てよ、葬式の前にはお通夜があるし、死んだその日に行うことではない、ということはまだわからない。確信を得ることが出来ない僕は、次第に空腹も眠気も感じないようになっていた。
インターホンの電子音が鳴り、金子さんが立ち上がって液晶画面を覗き込む。何度か咳払いをすると、しゃがれた声で応答した。
「はい」
「あっ、藤田動物病院の石井です」
「石井さん? なんでわざわざ?」
「最近来られてなかったのでちょっと心配になりまして、その」
「そうなんですか、せっかくなんで上がってください」
そう言うと金子さんは一階のロックを解除して僕を抱き上げた。
「ポチ、お前もなんか匂わへんか? 甘酸っぱい匂い」
金子さんの真似をしてくんくんと辺りを嗅いではみたが、僕にはそんな匂いは感じられなかった。やはり料理人は匂いに敏感なのだろうか。そうこうしていると玄関のインターホンが鳴り、金子さんはぺたぺたと廊下を歩いて行ってドアを開けた。
「どうぞ、お入りください」
「はい、あれっ? ポチ、えっ? もしかして、金子さんですか?」
「察しがいい人で助かります、金子です、さあ中へ」しなやかに石井さんの肩に手を伸ばし中へ引き入れるとゆっくりドアが閉まった、息が当たりそうな距離で立つ二人を交互に見ると、石井さんは眼を大きくして固まっていて、金子さんは落ち着いた微笑みを浮かべていた。
「ポチの爪切りですね? 助かります、お茶を入れますので奥のリビングへどうぞ」
石井さんはその有無を言わさない丁寧な言葉に誘われるようにサンダルを脱ぎ、廊下をぺたぺたと歩いて行く。そこで気がついたのは石井さんの服が上が白のTシャツで下が黒いズボンという組み合わせだったのだ。白黒の服を着た人間が二人、僕はこの二人がご主人のいないこの家で話すことを聞き逃さないように集中していた。リビングに入った石井さんはどうしていいのかわからない様子だったが、金子さんがすぐに「こうしましょう」と言い、テレビに向かって置かれていた座椅子を一つ窓側へ、もう一つをキッチンへ続く廊下側へ移動させた。




