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蝉の声が遠くで聞こえ始めた、ご主人と出会わなければ今頃火傷してしまいそうなアスファルトの上を歩いていたのだろう。北の空には入道雲がみるみるうちに背を伸ばしていくのが見える。この季節になるとご主人は風鈴をベランダの物干し竿にくくり付ける、それなりに高価なものなのだろうか、音が鳴ってから消えるまでやわらかく響いているのがわかる。その下にはプランターが並べられ、ローズマリーやバジル、ネギやトマトが育てられている。風が吹くと澄んだ風鈴の音が鳴り、香草の爽やかな香りが網戸の目をすり抜けてリビングに入って来る。僕はいつしか夏も好きになり始めていた。
どうしてご主人は帰って来ないのだろう。今日は早番のはずだ、もう十時を過ぎているのに。もしかすると僕が勘違いをしているのだろうか、遅番だとすると十一時だからまだ一時間はある、そうでなくても残業なのかもしれないじゃないか。そんな日もあるだろう。
午前二時二十三分、テレビの右下に表示されている数字を見るのがこんなにも不安に感じたことはなかった。もうご主人は帰って来ないのかもしれない、そんな嫌な考えが何度も頭をよぎる。玄関まで行き、耳を澄ませても違う階の住人がドアを閉める音しか聞こえなかった。眠っては眼を開けるのが怖くなっていた、そこにいつの間にかご主人がいれば全てはいつも通りなのに。テーブルの上に飛び乗り「ここはあかんで」と優しく伸びてくるご主人の手を待ってみても、僕は独りのままだった。布団の中に隠れているんじゃないかとも思ったが、ご主人の部屋のベッドは平たく、薄いブランケットが一枚広がっているだけだった。
午前三時四十七分、どうして人間は時間がわかるものをつくったのだろう。僕は耐えられなくなった、このまま死ぬのであればここで数字を見ているのは嫌だった。ご主人の部屋へ行き、クローゼットで体を丸めた。ご主人の匂いがする、太陽の匂いだ。大きくて温かい、ここにいれば少しでもご主人を近くに感じることができる。ご主人、僕も今からあなたの傍に行くでしょう、そうしたら、またあの秋の日のように僕を抱き上げてください。
ガチャッという鍵の回る音に僕は飛び上がり玄関へ走った。急ぎ過ぎて踏ん張りが効かずに廊下の壁にぶつかってしまった。ドアが開いたその先には、金子さんがいた。
「ポチただいま、お腹減ったやろ?」
僕の頭はおかしくなってしまったのだろうか、これは確かに金子さんだ、しかし鍵を持っている。どうして金子さんがこの家の鍵を持っているのだろう、やはりもうご主人はこの世にはいないのだろうか。それにこの臭いはお酒だ、かなり強いアルコールの臭いがしている。
「えーっと、右下の棚右下の棚、これか」
金子さんは僕のお皿に僕のごはんを入れるとそのままお風呂場に入って行った。どうなっているんだろう、僕が見間違いをしていたのだろうか、シャワーの音が止まってご主人が出てくるのを僕は待っていた。
「ん? お前なにしてんの?」
金子さんだ、これは金子さんだ。シャワーを浴びたのに来た時と同じ白いワイシャツと黒いズボン姿だから間違いない。持っているトートバッグには、ついさっきまで着ていた白いワイシャツと黒いズボンが入っている。僕は本当にご主人がいないのか脱衣所を見回したがその姿はなかった。金子さんはぺたぺたと裸足で廊下を歩き、冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぎ、一口飲んで継ぎ足した。そのグラスを持ってリビングの座椅子に座るとメモ帳を取り出して何かを書き始めた。僕が不思議そうにその光景をみていると、金子さんはこちらを見ずに声をかけた。
「食べへんのか? 純のやつ心配してたのになあ」
この言葉だけではご主人がどうなったのかはわからない、もっと情報が必要だった。長期戦を覚悟した僕はごはんを食べることにした、腹が減っては戦はできないのだから。




