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湯気の中  作者: 三波直樹
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 うなだれるご主人の腕を引き、僕を抱えて金子さんは一階にある駐輪場までやって来た。自転車のカゴに乗せられてあみだ池筋を北へ上り、堂島大橋を越えると下福島公園が広がっているのが見えてきた。四方をマンションと病院に囲まれたその公園はランニングコースとグラウンド、金子さんが週に一度「塩素系中年」といういささか語呂が悪いものになりに行くスポーツクラブの温水プールが隣接している。都会の真ん中に空いた静かなその空間にはいつも寂しくはならない程度の人がいて、体を動かすには最適な場所となっている。頭が動かなくなったら体を動かせ、というのが金子さんの持論だった。僕は自転車のカゴの中からいつものように二人を見ていたが、この日のキャッチボールはご主人の肩よりも心がほぐれるまでに少し時間が掛かった。


「純ってさ、論文とか読んだことある?」


「急に、なんでそんなこと聞くん?」


 ご主人は指からボールが抜けて浮ついた球を投げてしまった。飛び上がってなんとかボールを取った金子さんは二、三回膝の屈伸をしてから話とキャッチボールを続けた。


「俺ネイチャーっていう学術雑誌読んでるんよ、週刊では英語のしかないんやけど年に数回ネイチャーダイジェストっていう日本語印刷の雑誌が出ると必ず読むんよ。総合誌やから興味がない分野の内容も多いんやけどさ、この前読んだ記事に面白いこと書いてあってん」


「どんなこと?」


「イギリスのケンブリッジ大学の教授が書いた論文でさ、スポーツにはげんで育った人間は素直で真面目な性格になる傾向にあるんやってよ。その理由の一つにスポーツが無意識下、つまり潜在意識で行動することが最善の方法なんだと選択するまでの判断速度を短縮させてて、深く悩んだり考えたりするよりも早く処理しなければいけない状況に身を置くことによって目の前のことに集中しやすくなるんやって。まあどんな方法で統計とかデータ取ったりしたんかまでは憶えてへんけどね、それともっと単純な理由もあって、体を動かすことによって脳への血流の流れが良くなって健全な思考になりやすいってこと」


「そうなんや、凄いなあ」


 ご主人が真剣な表情で話を聞いているのを見て、金子さんは一人で笑っていた。


「でもそんなに面白い論文やとは思わへんねんけど」


「ここまではな。続き聞きたくなった?」


「これからの話が面白いんやろ? そりゃあ聞きたいよ」


「じゃあ缶コーヒー」


 金子さんはグローブを外してベンチへと向かった、後を追うようにご主人が財布を取りに来て、コーヒーを買って戻って来るまでの間も金子さんは笑いをこらえていた。


「なにがそんなにおかしいの?」


 ご主人はコーヒーを渡すなり問いかけた。金子さんは缶を上下左右に振ると一瞬真面目な表情を浮かべてつぶやいた。


「この話が俺のつくり話やったってこと」と言い終わると同時に開けられた缶の蓋が落語家の扇子を叩くような小気味好い音を立てた。あっけにとられたご主人と僕は呆然としていたが、コーヒーを一口飲んだ金子さんは話を続けた。


「理由とか理屈なんて結局どうでもいいって思うことないか? 人を好きになるときなんか特にさ。なんでこの子のことが好きなんやろうとか、どこが良いんやろうとか俺は考えたことがない」


「そうなん?」


「純はどうなんよ? そりゃ好みはあるやろうけどさ、好きでいる理由を聞かれて困ることってないか?」


「僕は、どうなんやろ」


 僕もご主人と同じように考えてしまった。僕がどうしてご主人のことを好きなのか、その理由はたくさんあったが、それを全て答えればいいのだろうか。


「なんで金子君は理由を考えへんの?」


「理由を見つけたくないからやよ」


 金子さんの答えはいつもシンプルで、その反面どうしても謎めいていた。リードで繋がれて散歩していたチワワに吠えられて、金子さんの理由を見つけたくない理由はわからないままになってしまった。


 土佐堀大橋を渡り切ったところで金子さんと別れて家に帰ると、ご主人はシャワーを浴びてそのまま横になってしまった、今日は休みの日だというのに忙しい一日だったのだろう。リビングのテーブルに置かれたままの二つの湯呑を眺めていると、どうしようもなく寂しく感じた。


 受け取ってしまったお見合い写真は捨てることができず、お寺で写真供養をすることになった。面白そうだから俺も一緒に行く、と金子さんもついて行ったらしいが、「なんかこの子が亡くなったみたいで悲しくなってきた、泣いていい?」などとご主人を揶揄からかっていたのだそうだ。それも金子さんなりのご主人に対する気遣いだったのだろう。


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