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湯気の中  作者: 三波直樹
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 ご主人に見合いの話が舞い込んだのはそれから一年程経った週末のことだった。休みの日に珍しくスーツを着て出かけていった。夕方になり、帰ってきたご主人の手には大きな紙袋が力なくげられていた。テーブルの上に紙袋を置き、ご主人が部屋着に着替えると電話が鳴った。


「はい、もしもし」


「ああ村田君、写真用意してくれたか?」と甲高い陽気な声が漏れてきた。福徳スーパーの二代目社長、福徳茂さんだった。


「ええ、今帰ってきたところでして。でも、会うかどうかはまだわからないですよ?」


「わかってるよ。明日詳しい話しするからそれからでもかまわへんし、村田君も気に入らんかったらわしに言うてくれたらやんわりうまいこと断るから、な?」


「はい。じゃあ明日十一時でしたよね?」


「せやね、ほな楽しみにしてるよってに」


 ご主人が乗り気でないことは一目瞭然だった。ポートレートに写るご主人の表情は引きつって強張こわばり、その笑顔はくるみ割り人形のように見えた。だからといってカメラマンを責めることは出来なかった。紙袋から取り出したUSBをノートパソコンに差し込みファイルを展開すると、その苦労と試行錯誤が詰まっていた。窓辺にたたずむくるみ割り人形、屋外で本を読むくるみ割り人形、枚数を重ねるにつれて色褪いろあせていき、四時間かけて百枚くらい撮影したらしいのだが、結局六枚目に撮った椅子に腰掛けているくるみ割り人形の一枚に決めたらしい。


「やっぱりこれが一番マシに写ってるんかなあ」


 引き伸ばされたポートレートを不安気に見つめるご主人は、どことなく辛そうだった。ほかの人間にとってはどうかわからないが、飼い主という要素を差し引いても僕はご主人の笑顔が好きだった。底抜けに明るいというわけではないが、物腰のやわらかさが滲み出ているし、目じりの浅いシワが重なって愛嬌もあると思う。しかし、ここにある写真にはそんないつもの笑顔はなかった。


「会ってしまったら、そのまま好きになっちゃうんかな」


 まだ相手がどんな人なのかわからないのに、ご主人が用意された出会いに期待を抱くことはなかった。


 次の日、ご主人が金子さんと一緒に帰って来た。この後キャッチボールをしに行くのだろう。ご主人が持って帰ってきた台紙の中には自然な笑顔をたたえた女性が写っていた。それを見た金子さんが「可愛らしい子やんか、会ってみたら?」とくと「もう断ってもらった」とご主人が言った。


「なんか、この人の笑顔見て、やっぱりやめとこうって思ってん」


 手にはめていたグローブを取って床に置き、金子さんは黙ってその続きの言葉を待っていた。


「この人は同じように自然に笑顔になれる人と、出会うべきなんやないかなって。正直見た目は好みやし、一度会ったらまた会いたくなるかもせえへんけど、会う度にこのお見合いをセッティングしてくれた人たちのことが頭に浮かんでしまいそうで。そんなこと考える僕が会うのは失礼な気がして」


 そう語るご主人は不思議と晴れやかな表情をしていた。スーツをクローゼットにしまい、ジャージに着替えて使い古したキャッチャートミットを取り出した。


「周りの環境もあって人を好きになることが嫌なんじゃなくてさ、むしろそういうことって多いと思うんやけど、なんか、僕には無理やった」


「そうか、真面目やな村田は。まあお前らしくていいと思うけど」


 リビングの座椅子の上であぐらをかいてお見合い写真を眺める金子さんを見て、ご主人は鉄瓶に水を入れて火にかけた。いつになく真剣な表情でご主人が座るのを待っている金子さんは、なにかを考えているようで、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。ご主人はあえて声を掛けずに急須へ沸いたお湯を注いで温め、一度お湯を捨てて茶葉をティースプーンで二杯入れ、鉄瓶からまたお湯を注いでリビングに持って来た。自分のものより一回り大きい湯呑にお茶をれると、いつもなにか飲み物を持ち歩いて水分補給をおこたらない金子さんの前に置いた。


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