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湯気の中  作者: 三波直樹
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「洗剤は浸透しやすいからたわしでしっかり洗う、日干ししたら反り返ったりするから陰干し、それでもカビが心配なら重曹じゅうそう使ってあげて」


「うん、ありがとう。そのへんはまた調べることにするわ」


「おう。これで今日は檜風呂に入れるから楽しみやな」


「えっ? このまな板お風呂に入れるん?」


「違うんよ、この削りカスを手拭いで包んで湯船に入れると最高なんやよ」


「なるほどね、流石やなあ」


「入浴剤より贅沢なんやから。じゃあ半分いただきます、これを貰いに来たようなもんやからなあ、今日はスモークチーズつくるわ」


「それやったら」


「あかんて、教えへんで。ここでスモークいたら警報機鳴るし、敷金返ってこうへんくなるからな」


「そうか、そうやね。諦めるわ。これから仕込み?」


「うん、なかなかいい時間潰しになったわ、ありがとう」


 ゆっくりと閉まるドアの隙間から、遠ざかっていく金子さんの背中を僕は見ていた、会う度に金子さんは違う顔を僕たちに見せた。でも、会う度に金子さんらしいなと感じる。いつの間にか近くにいて、そして去っていく、まるで独りになるのを望んでいるよにも思えた。


「なんか、いっつも不思議に思うねん」


 ご主人は廊下の壁にもたれてうつむききながらそうつぶやいた。


「金子君とおると楽しいねん、でも、なにも言えなくなる時があるねん。黙ってるときはすごく近寄りがたい雰囲気やのに眼が合うと笑って話すんよ。そんで僕が話すと全然期待してた返事じゃないこと言うんやけどさ、それが面白くて。どう頑張っても僕は金子君みたいなれないんやって痛感してしまう。どこに行っても変わらへん、なにをしてても金子君は自分の生き方が出来る人やねん。いっつも次へ次へ、前へ前へ進んで、話が合うかなって思ったらまた新しいことやり始めたりしてて、いつまで経っても追いつかれへんねん」


 僕の知らない涙だった。哀しさ、悔しさ、情けなさ。寂しさも混ざっていたのかもしれない。


「でも金子君は、村田はすごい、お前はすごいって言ってくれる。たぶん本当にそう思ってくれてるんやろうし、その言葉は信じてる。だけど金子君以外の人にそう思われる自身が、僕にはない、僕には、なにもない」


「ニャー」


 僕が声を出すと、ご主人は大きな手で僕を抱き寄せた。孤独は一人では感じられないのだと思った。自分の存在がそこにあるのに、誰も気づいてくれないときに孤独は生まれる。外へ出れば数えきれない人達がいる、でも同じ道を同じ方向へ歩いていても、誰とも関わることがなければいつだって孤独なんだろう。ご主人は自分の歩調をいつも誰かに合わせてきたんだと思う。職場の人達や友達、そして恋人にも。同じ歩調で向きを合わせて声をかけてきた、その優しさは報われないのだろうか。


 春は中途半端な季節だと聞いたことがある。気温も上がったかと思えばまた下がる、ご主人も衣替えに躊躇ちゅうちょしている最中だ。人の心も揺れ動き、寒さという絶対的な感覚から解放されたことに戸惑う。去年と同じものを身に纏い、知らない間に過去の自分とは違う自分に気づかされる、と誰かが言っていた。


 春は、出会いと別れの季節とも言われている。植物が段々と芽吹きはじめるように、育毛剤を買う余裕が出来たご主人は、髪も薄っすらとではあるが濃さを増してきた。突然降り出した夕立のように訪れる変化がある一方で、誰にも気がつかれずに訪れる変化もあることを、僕は知っていた。


 少しだけ開けていたリビングの窓から、湿ったぬるい空気が入って来る。ご主人に抱かれて外を見下ろすと、色んな形の傘の花が咲いていた。天満橋の先にある大阪造幣局の桜の花びらが堂島川を埋めていた。百三十種類を超える桜が一つの場所で見られる造幣局の桜の通り抜けは一方通行で、引き返すことは出来ない。それを知らずに訪れた人は自然と足をとめて桜を眺めるのだという。もう一回りする手間をはぶきたいのだろうか、後悔がないように、見逃さないようにしているのだろうか。もしそうなのだとすれば、ご主人には出会う人すべてが桜と同じように見えているのかもしれないと思った。


「春が、通り過ぎて行くなあ」


 落ち着きを取り戻したご主人は、いつもと変わらない優しい表情で僕を見ていた。


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