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「ありがとうございます」
「ほんと、つまらないものなんで、好きなように使ってください」
「いえいえそんな。じゃあ、その、ポチを」
「あっ、すいません忘れてました」
僕は爪を切られたことを後悔した。石井さんの腕にしがみつこうとしたが引っ掛かることはなかった。四つ折りのメモ用紙が怖かった。開いた途端にこの世界が変わってしまうんじゃないかと思えた。今離れてしまったら、僕にはどうすることも出来ないとわかっていたから。
「石井さん、あの、またポチの爪切りお願いしてもいいですか?」
「はい、いつでもどうぞ」
曇りのない石井さんの笑顔が、僕の腕の力を緩ませた。
あみだ池筋を北に上り土佐堀通まで出ると、大きな夕日が見えた。石井さんの赤くなった顔が頭に浮かんだ。ご主人は信号で止まると四つ折りのメモ用紙を広げた。そこに「さよなら」の文字は無く、少し丸みを帯びた字でレシピが丁寧に書かれていた。横断歩道を東に渡って角にあるコンビニで蜂蜜を買い、また東へ向いて歩く。土佐堀通から北へ一本入ると僕たちのマンションが見えた。
玄関を開けるとリビングの床の一部に夕日が当たっていた、僕はそこで丸くなってキッチンに立つご主人を見ていた。
夕飯に薩摩芋の姿はなかった。僕はご飯を食べる気分になれずにふてくされていた。何度かご主人が心配して声を掛けてくれたが、ステンレス台の上に置かれたままのビニール袋と同じように僕は動かなかった。
お風呂から出てきたご主人は僕がまだご飯を食べていないことに驚いていが、どうしても食欲が湧かなかった。ご主人から小百合ちゃんの匂いがしていたのが気に食わなかった。捨てるのは勿体ない、だからシャンプーもコンディショナーもボディーソープも使い切るまでは以前と同じ物なだけだ、それ以外に理由なんてない。そんなことはわかっている。僕が人間の言葉を話せたとしても、何を言いたいのかわからない。考えることに疲れてしまった僕は眠ることにした。
ビニール袋の擦れる音が聞こえて僕は飛び起きた。
「おっ、ポチ大丈夫か?」
薩摩芋を洗うご主人はその手を止めて僕の様子を見に来たが、そのまま料理を続けてほしいと思った僕はステンレス台に飛び乗った。
「気になるか? これからデザートつくるんよ」
シンクを照らす蛍光灯の下に石井さんのメモが貼られていた。
①サツマイモを一センチ角くらいの短冊に切ります。
②切ったサツマイモはしばらく水に浸けてください、仕上がりがキレイになります。
③キッチンペーパーで水気を切ってサラダ油とバターを使って中火で炒めます。
※触りすぎると崩れるので気をつけてください。
④ほんのり色づいて甘い香りがしてきたら少しだけ塩を振ってください。
⑤油を切ってお皿に盛ります。マーガリンとハチミツを混ぜたものをつけて食べます。
※ミントやレモングラスを刻んで加えるとサッパリとして手が止まらなくなります。
⑥おいしくて幸せになります。でも食べ過ぎると太ります。
僕は石井さんに会いたくなった。早く爪が伸びてほしいと心から願った。僕の中にあった粘性の強い濁った感情は、キッチンを満たす甘い香りに引き剝がされてどこかへ行ってしまった。山のようにお皿に盛られた薩摩芋は、食べ始めると石井さんの予言どおり手が止まらなくなった。ご主人は「太っても幸せならいいやんな」と言って残りの薩摩芋を洗い始めた。
その日から、二週間に一度のペースで藤田動物病院に通うようになった。ご主人がロビーベンチに座って僕の爪切りが終わるのを待っていると、そんなご主人を待っていたかのように奥から藤田先生が出て来て声を掛ける。仕事をしなくても大丈夫なのかと、心配になるくらい長い話をするときもあったが、石井さんは僕を抱き、いつもご主人の隣に座ってにこにこと笑っていた。




