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「こんにちは、まだ冷えますね」と柔らかい声で石井さんが迎えてくれた。
「こんにちは。あの、ちょっと困ってまして、ポチの爪切りが出来ないんですよ、どうやっても逃げてしまって」
ご主人が受付カウンターの前まで行くと、石井さんは問診票ではなく両手を差し出した。
「じゃあ私がしてみますね」
「えっ?」
僕は石井さんの太腿の上で仰向けにされた。
「その、何か記入とかしなくていいんですか?」と、ご主人が戸惑いながら訊いた。
「大丈夫ですよ、暇ですから」
ご主人は爪を切ってもらうのも診療の内だと思っていたが、石井さんにとっては仕事ではなく、床に落ちたペンを拾うことと同じように当たり前の行動だった。ズボンのポケットから出てきた爪切りの柄は、所々色が剥げ、長年使い込んであるように見えた。
「どうぞ座ってくださいね」
「あっ、はい」
突っ立っていたご主人は僕が嫌がらないか気になるようで、ゆっくりと後退り、ロビーバンチの端に座った。
「村田さんは何かスポーツされてたんですか?」
「ええ、その、野球やってました」
「そうなんですか、先生が村田さん体格良いから何のスポーツしていたか予想してたんですよ」
「そうやったんですか。で、先生は何やと思ってたんですか?」
「プロレスです、それで職業は覆面レスラーだったらいいのになって言ってました」
「いいのになって、藤田先生はプロレスファンなんですか?」
「それが違うんですよ、趣味は競馬で、うちの病院にも馬が来たらいいのになって言うんですよ」
僕の爪はいつの間にか切り終わっていて、二人は何気ない会話を続けていた。そこに奥から出てきた藤田先生が加わって馬の話が始まると、「長くなりますよ」と石井さんがご主人に耳打ちをした。
幼い頃、体が弱かった藤田先生は親の勧めで乗馬療法を始めた。自分の体のことよりも馬に乗りたくて通い続けたらしい。背はあまり伸びなかったが、中学校に入る頃には一人でも外出できるようになったという。父親の後を継いで獣医になり、和歌山から就職活動で大阪に来ていた石井さんが公園のベンチで野良犬を撫でているのを見て声を掛けた。面接へ向かう途中で道を尋ねられて遅刻してしまい、途方に暮れていたらしい。先生は「是非うちの病院に来てほしい」とお願いした。石井さんの生来の資質を見抜いていたのだろう。石井さんは「大阪のナンパは一味違う」と思ったのだが、貰った名刺の住所へ行ってみると、先生が豪快な笑い声をあげながらも一人忙しく診療に追われている姿があったのだという。
「気がついたら七年経ってました」石井さんは和らいだ表情を浮かべた。
僕はすっかり石井さんの太腿に馴染んでいた。もう少し抱かれていたら心地よく眠れていただろう。
「村田さん薩摩芋食べますか?」先生はそう言うと返事も聞かずに奥からビニール袋を持ってきた。中には粘土質の土が付いた小振りの薩摩芋が入っていた。
「湊子ちゃんの実家が農家やってはってね、沢山送ってきてくれたんですけど食べきれなくて」
「先生まだあったんですか? そんなんの残り物みたいで村田さんに迷惑ですよ」
「そんなことないですよ、有り難いです」
「そうですか、もう一人の飼い主さんと食べてください。それやったらこれじゃ少ないかな? 奥にまだあるんで取って来ましょか?」
「いえ、今はポチと二人暮らしなんでこれで十分です」石井さんがすぐに察してご主人の言葉が止まると同時に会話を繋いだ。
「先生が余計なことするから、すいません。うちの親も馬鹿みたいな量送ってくるんです」
石井さんは顔を赤くして先生のお腹を小突いている。
「じゃあお詫びに湊子ちゃんの薩摩芋料理教えてあげたらいいんちゃうかな」
「やめてくださいよもう、あんなの料理じゃないですよ」
「あの、僕最近自炊始めたんですけど、正直いただいてもどうやって食べようか考えてたんです。だから教えてもらえたら助かります」
「ほら、村田さん助かるって」先生は少し意地悪い笑顔をつくって言った。
「先生は村田さんに謝ってください」
石井さんは先生の腕をつねり、僕を抱いたまま受付カウンターへ行きメモ用紙にレシピを書いた。先生は照れくさそうに頭を掻きながらご主人に頭を下げていた。四つ折りにしたメモ用紙を手渡す石井さんの手は恥ずかしさで少し震えていた。




