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湯気の中  作者: 三波直樹
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 美幸は冷蔵庫から余っていたニンジンと大根を取り出し、短冊たんざくに切って小鍋に入れる。そこへ、ご主人が今朝つくっておいた出汁の味をみてから少量加えて火を通す。出汁がほとんどなくなると、醤油、みりんでのばした合わせ味噌を和える。小皿に盛り付けてすり胡麻をかければ完成だ。


 シャワーを浴びて顔を洗って髭を剃り、さっきの寝間着とあまり変わり映えしないスウェットに着替えたご主人が廊下に出てきた。


「はい、おいなりさんのおかず」


美幸が指をさしたテーブルの上には、ちゃんと包みからお皿へ並べられたおいなりさん、そして美幸がつくったえ物とほうじ茶が置かれている。


「ありがとう」


「母の味やのうて精進料理つくってしもたやないの」


 自分の見せ場を失った美幸は悔しそうに眼を細めた。肉や魚はご主人が使い切ってしまっていたので、これが精一杯だったのだろう。人のことを想って、人のためにつくった料理を、僕は生まれて初めて見た。いつもなら山のように料理が盛られる小鉢に、つくった本人とは対照的に控えめなボリュームで用意されている。それだけでも、気づいて褒めると照れてしまいそうな美幸の品の良さが感じられた。お世辞にも豪華と言えるものではないが、少しでも息子においしく食べてもらおうと何度も何度も味見をする美幸の姿は、実家で家族に料理をつくっていたときと、変わらない想いが込められているように見えた。


「ほんならお母ちゃん帰るから。それから、彩弥から連絡あったら、話し聞いてあげてね」


「うん、わかった。ありがとう」


「ほんならね」


 ご主人の素直な返事を聞くと、美幸は軽い足取りで帰って行った。


 しばらく玄関のドアを見つめてうなじをさすっていたご主人が、のそのそとリビングに戻って来て、「お母さんのトンカツは絶品やねん」と少し残念そうに僕に教えてくれた。


 座椅子に腰を下ろして手を合わせ、和え物をつまみつつおいなりさんをほおばると、ご主人の口角が少し上がる。


「ポチ、こんなお弁当じゃなかったけど、なんか遠足思い出すわ」


 それからご主人は昔のことをいくつか話してくれた。実家にいたころはお父さんとおかずの取り合いをしていたこと、妹の彩弥ちゃんが生まれた日のこと、美幸がまだ樽のように丸くなかったころのこと。僕にとっては想像もつかないことばかりだった。


 

 ご主人の料理に対する興味が薄れることはなく、たまたま見ていた海外料理番組のシェフが「フレッシュなハーブを使うとプロの味に近づく」と言えば植物園に苗を買いに走ったりもした。しかし、苗はまだ入荷していなくて、種を蒔くにも時期が早いと言われたらしい。諦めがつかず金子さんに電話を掛けて「ミントは強いから冬でも育つから分けたるわ」と言われると彼のお店まで取りに行った。茎を少し切って水を入れたジャムの空き瓶に浸かったミントは根を伸ばし始めている。毎朝重いまぶたこすりながら水を入れ替える後ろ姿を見ていると、僕は素直にご主人のそばにいれることが誇らしく思えた。


 そんなご主人に対して唯一不安を感じてしまうのは爪を切られるときだった。手や表情から緊張が伝わって、どうしても反射的に逃げ出してしまうのだ。爪研ぎだけでは限界に近くなっていて、歩くのにも気を使わなければならなくなっていた。ご主人は抱き方を変えてみたり、僕が寝ている隙に切ろうとしたり試行錯誤してくれていたがうまく行かない。悩んだ末にご主人は僕を抱えて藤田動物病院の扉を開けた。


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