19
「自然、消滅。かな」
「黙って出て行かれたの?」
ご主人は眼を合わす事が出来ずにうつむいてしまった。料理に励むようになって少しは薄れたと思っていた大晦日の出来事が、頭をもたげるのだろうか。
美幸は美幸で図星だと察したのか、前のめりになって浮いていた腰を座椅子に下ろした。そして今までとは違い、ゆっくりと落ち着いた口調でご主人に声を掛けた。
「純、あんた自炊してるの?」
「うん。まあ、してるよ」
美幸は床に置かれていた料理本を手に取ると、パラパラとページをめくった。
「おいしそうなんいっぱいあるねえ」
「まだ、失敗してばっかりやけど。そういやさ、お母さん、今でも家でご飯つくってるん?」
「あんたらが出ていってお父さんと二人やからねえ、贅沢してます」
美幸は自分のお腹をポンッと叩いて笑顔をみせる。屈託のないその表情にご主人も安心したのか、はにかんだ笑みを浮かべた。
「お父さんは大食漢やから、つくり甲斐あるんよ」
「相変わらずやねんな」
美幸に捕まった僕は「あんたここ座り」と膝の上に置かれて丸くなった。
ご主人は高校に入学すると寮に入り、大学時代から一人暮らしを続けているという。僕と一緒に暮らすようになってからは、一度も実家に帰ったことはなかった。
美幸が訪ねてきた目的は、一つだけではないのだろう。たとえ大きくなくとも、積もり積もった話があったのだ。少しずつ、砂浜にある凹凸を波が均らしていくように、境目がなくなり、二人の会話はいつの間にか一緒に暮らしていたころと変わらないであろう、和やかな雰囲気に包まれていた。美幸はどことなく藤田先生に似ている所があったので突然大きな声になるときは驚いたけど、僕はすぐに馴染んだ。ご主人が人の話を最後までちゃんと聞くのは、美幸の影響なのかもしれない。しっかりと聴いていないと、いつの間にか違う話になっていたりするので気が抜けないのだ。
「じゃあ守君が教えに来てくれてんの?」
「いや、金子君はそんな色気がないことしたくないって。だからしょっちゅうお店に電話して訊いてる」
「あの子も恥ずかしがりやけど、あんたのことちゃんと考えてくれてるんやねえ」
「そうなんかなあ」
「昔からそうよ? 男がなんでもかんでも自分一人で出来たら、お嫁さんの居場所が無いやないの。独身男が猫飼って、男友達と横に並んで料理してたら誰も寄り付かんくなるわよ。隙がなかったら好きになってもらわれへんのよ? おかあちゃん上手いこと言うたやろ? なんであんた笑わへんの? 寂しいわあ。 まあ程々にしときって、ええこと言うやないの」
「そういう意味やったんかなあ」
「どうやろねえ、また守君に聞いたらええんちゃうの?」
「そうしよかな」
「でもあんまり迷惑かけたらあかんよ? あの子も忙しいんやから。そや、久しぶりに母の味でも食べる?」
美幸は「あんたここにおり」と言って僕を座椅子に座らせてキッチンを物色しはじめた。
「ええって、もう帰らなお父さんの晩御飯つくらなあかんのとちゃうん?」
「そんなんぱぱぱっとやるからええの、それよりいつまで寝間着でおるの? おやじがはじまってまうやんか」
「おやじが、はじまる?」
「お風呂で体が水弾かんくなったり、休みの日に寝間着でゴロゴロしてたらもうおやじやないの。お父ちゃんみたいにデイ・ハードの役者っぽくなってくれたらええんやけどね」
「それやと重労働って意味になってまうんやけど」
「重労働やんかあの映画、なにが間違ってんの? クリスマスのバケイションやのにあんな仕事して、やっぱり茂のおっちゃんに休みの日は休ませなあかんてお母ちゃん言うたるわ」
「もうそれはええから、ほんならなんかつくって」
「ほなあんたはお風呂入ってきなさい、身体にカビ生えたらどないすんのほんまに」
お尻をペンッと叩かれたご主人は、言い返す言葉もなく自分の部屋から着替えを持って洗面所へ入って行った。




