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二人と僕の生活が始まった。ご主人は僕に「ポチ」と名付けた。小百合ちゃんは「ややこしくない? 昭和の犬みたいな名前。まあいいけど」と反対することもなかった。
幾日かが経ち、風雨に晒されて荒れていた僕の毛並みが整いはじめた頃、ご主人に連れられて近所の動物病院に行った。小百合ちゃんは仕事なので来なかった。ご主人は「ごめんな、ごめんな」と何度も何度も繰り返し僕に頭を下げて謝っていた。そのとき気がついたのだけれど、ご主人は少し禿げている。外に出るときはいつも帽子を被っているし、朝の身支度は小百合ちゃんより洗面台にいる時間が長い。このときは自分の髪型がどうなっているのかよりも、僕のことを気に掛けてくれていた。
院長の藤田先生が「ワクチンと去勢前にする麻酔の注射のほうが嫌がる子多いですから、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」と言っても、「男として、なんかこの子に申し訳なくて」とご主人はずっとうつむいていた。
二本目の注射を打たれてから、僕の身体は重くなったり軽くなったりしている。ご主人はどこにいるのだろう。まだ鼻をグシュグシュと鳴らしているのだろうか。
病院の問診票には「村田純 三十一歳」、「立川小百合 二十七歳」、「ポチ 四~六歳」と書かれていた。小百合ちゃんはご主人よりも若いから小さいのだろうか。藤田先生は四十九歳だと言っていたけれどご主人よりは小さい、でも横に大きい。まだまだ人間のことはわからないことが多い。そういえば以前、テレビの中の人間が「勉強になりますね」と言っているのを小百合ちゃんが「うんうん」と頷いて観ていた。僕もテレビを観て人間のことを勉強しようかな。そんなことを考えていると、意識が遠のいて行った。
気がつくと、眼の前に野武士のような髭を生やした藤田先生の四角い顔と、ごはんの入ったお皿が置かれていた。部屋の明かりが窓に反射して、外の様子をうかがい知ることは出来ない。
「よく頑張ったね、ご主人も心配してしばらく一緒に様子を見てたけど、今日はここで一泊やで」
僕は頑張ったのか。なんのことかはわからないけど、なぜかすっきりした気分だった。部屋を見回すと、僕が入っているものも含めて六つのケージがあったが、残りはみな空だった。少し頭を上げると、ドアの横にあるガラス窓から受付が見える。表通りに出されていた病院の看板が、今は二つあるロビーベンチの間に置かれている。受付に座っていた石井さんが私服に着替え、僕に手を振って帰って行くのが見えた。
「しかしポチ君は大人しいなあ、今日は貸切やからくつろいでええで」
藤田先生は服を着ていなければ熊に間違えてしまいそうな人だ。石井さんよりも背が低いのでそれほど威圧感はなく、少し古ぼけたテディベアのような愛嬌がある。先生は分厚い手で器用にゲージのストッパーを外し「まだしばらくあっちにおるから、なんかあったら呼ぶんやで」と言って部屋を出て行った。これで僕が出会った人間は四人になった。つい先日までは怖がっていたのに、猫よりも個性があって面白い、悪くないものだ。僕は、マフラーを巻いて外を歩く人間を見ながら、冬がもうそこまで近づいていることを実感していた。室内で過ごす冬とは、いったいどんな感じなんだろう。不思議とご主人の情けない顔が頭に浮かび、いったい今はなにをしているのだろう、と考えるようになっていた。
翌日の夕方、歩道に積もった銀杏の葉が行き交う車の起こした風で空に舞う。光の濃淡や木の葉を揺らす風の動きが美しい。ガラス越しに見える秋は、僕の身体に触ることはなく、とても新鮮に思えた。この季節は飽きることがない。僕が外の景色に見とれてあまりにも動かないでいるので、石井さんが何度も様子を見に来てくれたが、途中からこの人は自分が暇だから僕と遊びたいんじゃないかと思えるほど、頻繁に部屋へ入って来ては僕を撫でてくれた。入口に置かれた藤田動物病院の看板の影が、ゆっくりと伸びていった。
街頭に明かりが点いた頃、隣の部屋で藤田先生の大きな笑い声が響いた。僕が気になって身体を起こすと、眼の前のドアが開いた。
「ポチ君、お迎えに来てくれたで」
ドアを開けた先生の後ろから、コートを抱えたご主人が部屋に入ってきた。
「ポチ、もう心配で心配で、走って来たら頭こんなんになってもうた」
「わっはっはっは!」
先生の大きな笑い声にも驚いたけれど、僕はご主人の姿を見て、さらに眼を丸くした。髪が昨日より薄い。毎朝四十分掛けて無い髪を小高い丘のように盛り上げるのだけれど、その努力が見るも無残にひしゃげている。頭の上を車でも通ったんじゃないだろうか。
「また知り合いに頭が御堂筋になってるって言われるわ」
「わっはっはっはっは!」
「先生、笑い過ぎです」石井さんが眉をひそめて先生の脇腹を肘で小突いている。
「ここで真面目な顔してたら駄目やよ、逆に村田さん恥かいちゃうよ」
「でも来院されて眼が合うなり笑うのは失礼です」
石井さんは眼鏡が似合う真面目な人で、きっといつもこうやって藤田先生にブレーキをかけていることが簡単に想像できた。藤田先生の左後ろに半歩下がって立つのが石井さんの定位置なのだろう、いつでも先生の言動に対応出来る間合いと気持ちの準備が出来ているようだった。それでも先生の悪気の欠片も感じられない笑顔を見せられると、心を閉ざしていられる人は少ないだろうと思った。藤田先生は顔のつくりから既に笑っているような人だった、人柄の良さがにじみ出ていると言ったほうがいいだろう。
「すいません、早速僕の持ち味が出てしまって」
「はっはっ、ポチ君の容態は安定してるし、村田さんの持ち味もええ感じやし良かった。去勢したら性格変わったりするのは言いましたけど、体が馴染むまでは落ち着かない子も中にはいるみたいで、でもポチ君は大丈夫やと思います」
「そうですか、色々と有難うございます」
ご主人は頭の御堂筋を先生と石井さんに見せてまた笑いを取った。このとき僕も人間だったなら一緒に笑ってしまっていたかもしれない。そうしたら、僕も先生と同じように石井さんに小突かれていたのだろうか。
隙間という隙間に入り込んでこようとする木枯らしが、ご主人の首を竦めさせる。歩道に面したお店のドアが開くと、一瞬だけ湿った空気を感じる帰り道。空には月が出ていたが、雲が掛かっていたのでその姿ははっきりとは見えない。タオルで僕を包み、人間の赤ん坊のように抱いて歩くご主人を見て、すれ違う人はクスクスと笑っていた。乱れてしまったご主人の髪型がおかしく見えたのか、僕との組み合わせが不思議に思えたのか、どちらにせよ落ち着かない帰り道だった。ご主人は僕に「よかったなあ、よかったなあ」と何度も何度も言った。そして、「大切にするからな、ポチ」と言った。




