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「あんた、また頭薄くなったんちゃう?」
「増えては、ないと思う」
「小百合ちゃんはどこ行ったの?」
「え?」
「なんも無いやないの。女の子の匂い、いっこもせえへんよ?」
さっきまできりっとしていた美幸の眉毛の両端は下を向き、ご主人のそれとどことなく似た形になる。心配でならないのだろう。よほど外は冷えていたようで、美幸の丸い鼻頭とぽってりとした頬がじんわりと赤くなっていく。
「純、あんたから彩弥に早まるなって言い聞かせてえ」
そう言うと美幸は下唇をグイッと前に押し出して、堰を切ったように泣き出してしまった。
「なに? どういうこと? 彩弥がどないしたんや?」
美幸はレースがついた小さなハンカチで涙を拭くが追いつかない。見かねたご主人が立ち上がるとテーブルに膝をぶつけて「あんた大丈夫う?」と美幸が半ばえづきながらご主人を介抱しようと手を伸ばすが、ご主人はその手を振り払い足を引きずりながらリビングを出てキッチンペーパーを掴むと、ロールが外れて床に転がってしまった。
「あんた何してんのもう。ドタバタドタバタしてもうほんまに、足大丈夫かあ?」
「落ち着こう、まずは落ち着こう。なにがどうなってんの?」
痛みで顔を歪めたくなるのを我慢して、ご主人は壁際に置いてあったゴミ箱を引き寄せてローテーブルの近くまで持って来た。美幸は巻物みたいに連なったキッチンペーパーを一枚ちぎり「ティッシュ買いやあんた」と言って化粧が落ちないように目頭に押し当てた。四枚程ゴミ箱にキッチンペーパーが吸い込まれて消えると、美幸は大きく鼻を啜ってから涙の理由を話し出した。
「彩弥が、年始にミャンマー旅行に、行ってきたんよ。そしたら雅史くんと別れたって言うて、もう男なんていらんって言うんよ、まだ二十二やのに」
「そんなんいちいち気にせんでええって、言うてるだけやって」
「お兄ちゃんとして心配にならへんの? 彩弥はそんな冗談言う子とちゃうって知ってるでしょ? シャボン玉って言うてんよ? 男なんてシャボン玉」
「冗談やって、心配しすぎやよ」
「あんあに綺麗で長かった髪もバッサリ切って、お母ちゃんになんの相談もせんとよ?」
「彩弥も彼氏と二人で海外行くぐらい大人やねんから、髪の毛かて自分の好きにするって」
「雅史くん行ってないの、彩弥一人で行ったの。危ないからやめときって言ったのお母ちゃん。でも事件が起こったのはミャンマーとちゃうの、国内やったのよ。彩弥がミャンマーで自転車乗ってる間に雅史くんが浮気してたんよ」
「それ、ほんまなん?」
「心配になってきた? 彩弥の友達の樹里ちゃんおるでしょ? あのちいちゃくて可愛らしい子、雅史くん面識なくて、樹里ちゃんをナンパしたのよ」
「うわあ」
「お母ちゃんもそう言うたの、うわあって。でもね、流行ってるでしょ今? 右見ても浮気左見ても浮気、たぶんお母ちゃん今日四組くらい浮気してる人見たんよ?」
「それは勝手な想像やろ? 失礼やって」
「だからお母ちゃん彩弥に言うたの、大袈裟に考えんほうがええよって。そしたら彩弥が、いまだに仲良くお父さんと一緒の布団で寝てる人にはわからないでしょ! って言うんよ」
「うーん」
「ヒトって言うてんよ? ずっとちゃんとお母さんって呼んでくれてたのに、ヒトやなんて。ミャンマーってとこは自分の親のことを、あの人はとか、あなたはとか、そんな他人行儀に呼ぶ習慣でもあるんやろか」
「知らんけど、ミャンマーに感化されたんやないと思う」
「純、あんたは浮気したの? されたの?」
突然自分に話の矛先を向けられたので、ご主人は石像のように固まってしまった。
あのメモ用紙一枚では答えようがない。でも美幸が提示したそのどちらでもないことを、僕は思っている。それに、小百合ちゃんが出て行った理由がどんなものであれ、ご主人は知らないほうが良い。せっかく抜けかけた胸の杭を、ハンマーで叩くようなものだからだ。僕はご主人のスマートフォンが鳴る度に、小百合ちゃんからの連絡でないことを願うようになっていた。




