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湯気の中  作者: 三波直樹
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「カレーつくって、あとは余った材料でひじきの煮物やな」


「うん、教えて」


「今から?」


「金子君に会ったから、今日は買い物してなくて」


「じゃあなんかつくらんと今日の晩ご飯ないってか?」


「そうやねん」


 金子さんの鼻から出た深い溜め息が僕の頭に当たる。


「ほんならお米炊こう、カレー出来上がるまでは長すぎる、俺待ってられへんわ。土鍋で二合にしよ、炊いたことあるやんな?」


「中学校のとき林間学校で飯盒炊爨はんごうすいさんやったとき以来、かな。やってみてや、見とくから」


「俺が今なにしてるかわかるやろ? ポチ抱っこしてんねん。自分でやらへんと身につかへんねんから。日本人はお米で育ってきたんや、実りの象徴やからお米炊かな始まらへん」


 そう言われてもプロの料理人に隣で見られていると、間違えるのが怖いのか、なかなか動くことが出来ないご主人を見かねて、金子さんは優しい口調で手順を教え始めた。


「この計量カップは料理用やからすりきり一杯で二百㏄、お米用は百八十㏄で一合、せやからだいたいこんくらいで二杯計ればいいんよ。自分で食べるんやから、気楽にやったらいいって」


 金子さんが肘でご主人の背中をコツンと押して、気持ちに弾みをつける。なんとなく、二人がずっと友だちでいられる理由がわかった気がした。


 僕は金子さんの話を聴くのが好きだった。ご主人との漫才みたいなやり取りも良いのだが、彼がご主人の質問に丁寧に答えてくれていると、小百合ちゃんもなぜかスマートフォンをテーブルに置いたから。


 ある日、金子さんが俺は失敗するのが好きだ、と話していたことがある、ご主人も僕もすぐには理解できなかった。どこの世界に失敗が好きな人がいるのだろう。よく人が言うのは、失敗は成功のもと、最初からうまくいくことなんて珍しいことだ、だから下を向いていないで挑戦しよう、そういう意味の言葉なんだろう。でも金子さんの言う失敗が好きという言葉は、まるで違う意味に聞こえた。「なんでも自分の思い通りになると面白くなくたってまうんよ。何回も失敗して、それから成功したときのほうが嬉しい。大人になると予想や予測が出来るようになる、こうなるだろう、こうすれば大丈夫だろう、それは挑戦することじゃなくて確認することになってくる。自分の今までの経験、培ってきた勘、それが当たってるかどうかのな。喜ぶ力が少なくなって、安心になる、安堵するんかな。それは悪いことじゃないけど、俺は面白くないんよ」だから金子さんは、失敗してしまうことに出会うと嬉しいのだという。ご主人の背中をコツンと押したとき、僕には金子さんが小さい子どもに見えた。さあ遊ぼう、楽しもう、と友だちを誘っているのだ。


「ほんまはザルとボールで研ぎたいんやけど、これ無洗米やろ? 二、三回軽く水洗いするくらいでいいから土鍋でそのまま洗ったらええよ」


「直接土鍋でやってええの?」


「洗い物も少ないほうがいいやん、こだわるなら次からは研げるお米買ったほうがええな」


 研ぎ終わったお米に水を吸わせてカレー用の野菜を切る間も、ご主人はたくさん質問をしていた。野菜の皮の剥き方や包丁の握り方。それでも金子さんからは「自分のやりやすいやり方でいい」という返事がほとんどだった。やはり教えることが面倒なのかとも思ったが、金子さんはご主人の動きから眼を離すことはない。ただやさしく見守っている、指示はしない、ご主人の感覚を見ている。上手い下手ではなく、なにを考えて手を添えるのか、どんな気持ちでまな板を拭いているのかを、ただ見ている。ご主人がニンジンを切るとき手に力が入っているのを見ると、金子さんがご主人の肘を掴んで左右に軽く振った。もう一度ご主人がニンジンに手を添えたとき、指先は自然と軽く曲がり、肩から肘は重力に任せて下に伸び、ニンジンを強く押さえつけることはなくなった。そして一言だけ、「必要なことだけ、それだけでいい」と言った。


 金子さんは必要なことだと感じたのかもしれない。ご主人が前を向こうとしていた、そして忘れようとしていた。それは今のご主人にとって必要なことだった。              

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