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いつもの流れだとご主人は金子さんには敵わない。つまり、このままでは二人で仲良く九十年代のJ―POPを唄い出しかねない。僕になにかできないだろうか。ご主人に抱えられていてはテーブルが邪魔で二人の顔も見えない。僕は腕の間から飛び出して部屋を歩き回ってみたが、二人はこちらを見ようともしない。
「お前んとこのスーパーちょっと問題やぞ? なんで袋麺が減塩のやつばっかりやねん、健康よりも味の満足感がほしい人のことも考えなあかんて。俺が好きで買ってたやつ全部減塩のやつになっとったもん、後から塩入れたって味ちゃうんやからな」
「それは担当が違うから僕じゃどうにも出来へんよ」
「担当が違うからって、そういや違うっていうたらあれ流行ったよな、違う違う、そうじゃ」
「ニャー」
水を打ったように部屋が静まり返る。自分でも驚いてしまった。
ご主人の所へ来てから人間の言葉をたくさん学んだが、どうしても猫はニャーとしか喋れないのである。我々の世界では人間でいうボディーランゲージが主なコミュニケーションの取り方で、ニャーというのはなんの意味も持たない、「自分はここにいる」という音での存在アピールでしかないのだ。高い声は好意的、低い声は敵意をもっているくらいの意思表示なのである。
「もう、これからってときになんやねん」
「ポチが鳴いた」
「そうやよ。鳴いたって、もしかしてお前初めて聞いたんか?」
「うん、たぶん初めて声聞いた」
二人が頭を寄せて僕を覗きこんでいる。これでうまくいくといいのだが。
「ほら、ポチもこうやってお願いしてるわけやし」
「ニャーしか言うてないやろ、近所のおばはんみたいなこというなよ」
こういう捉え方をされると、金子さんには僕の思っていることが伝わっているんじゃないかと思ってしまう。確かに僕の口から出た言葉はニャーだ、自分でも嫌になるくらいにニャーだった。ご主人がやろうとしていることに協力してほしいとは思っていたが、僕が伝えたかったのは「唄うな!」ということだった。
金子さんは自分の顎鬚を触りながらいぶかしげに僕を見ている。もう少し言葉尻をやわらかくして「唄わないで」としたほうが良かったのだろうか。頭の中を読まれているんじゃないかと思うと、急に怖くなってくる。
「今ある食材は?」
「ちょっと待って」
渋々と半分諦めたように金子さんがそう尋ねると、ご主人はキッチンへ駆けて行って冷蔵庫やステンレス台の戸棚の中をガサゴソと漁りはじめた。もしご主人のお尻に尻尾があったのなら、きっと上を向いて揺れているのだろうと思った。今の僕の尻尾のように。
末端冷え性の金子さんは、湯呑を両手で包みこむように持って待っている。フランス料理店で働いていた頃に、手が冷たいからパティシエを任されていたのだそうだ。チョコレートの細工などをするときに重宝されたらしいが、本人は男らしくない小さな手がコンプレックスだと言っている。
金子さんが自分の話をすることは稀で、気になる所がたくさんあるのに謎のままになっている。例えば服装を見てみると、年がら年中白いワイシャツを着ているし、ズボンはいつも黒い。ご主人が言うには中学校時代から私服はこのスタイルを通しているらしいのだが、その理由はわからないのだそうだ。ファッションに頓着があるのか無いのか、判断に悩むところである。アクセサリーなどの装飾品は一切身に着けず、連絡を取るには働いているお店に電話をするしかないという変わり者だ。
彼のお店cuisse de grenouille日本語で「蛙の足」という意味なのだが、その由来も「蛙が好きだから」で説明は終わってしまう。営業時間は夜の六時から朝方の三時までで、予約なし、コースなし、二名様限定のお取り分けのみ。メニューは日替わり、というより気分で変わるのだそうだ。
店内での撮影はフィルムカメラのみという決まりがあるのだが、そう言われても持っている人も持って来る人もほとんどいない。雑誌やテレビの取材をお願いされても「そういう店じゃないんで」と言ってすべて断るのだという。場所は土佐堀橋のたもとにある二階建てのビルの地下一階にあり、階段の入り口に漢字で書かれた「蛙」の赤提灯が吊り下がっていると営業中ということらしい。本人同様お店も謎が多い。
「とりあえずこれだけあった」
そう聞くと金子さんは僕を抱えてキッチンへと向かう。ステンレス台の上に並べられた食材、調味料を見るとすぐにメニューは決まった。




