10
ご主人はコートを脱いで自分の部屋のクローゼットにしまった。そして部屋着のスウェットに着替え、キッチンの棚から湯呑を二つ取り出してステンレス台の上に置くと、鉄瓶を火からおろして急須にお湯を注いだ。大きな左手で二つの湯呑を持ち、右手には口から細い湯気が出ている急須を持ってリビングのローテーブルの上にそれらを置いた。窓を背にした側の座椅子にあぐらをかいて僕を抱える。いつもと変わらない、落ち着いた雰囲気だ。でも、これから向かいに座るのは小百合ちゃんではなく金子さんだ。いったいなにを話すのだろう。
トイレから出てきた金子さんは、これから取り調べをうける容疑者のように陰鬱な顔になっていた。廊下で何度も鼻を啜り、体調がすぐれないことをアピールしていたが、それが演技だと露骨にわかるくらい下手で、母親に宿題を急かされている子どもみたいだった。
「ほうじ茶?」
「うん、ほうじ茶」
金子さんはちゃんと話しを聞いてくれる。その安心感からだろうか、ご主人は帰ってきたときよりは表情が明るくなっていた。そんなご主人とは逆に、座椅子に座ってもなかなか落ち着かないのか、金子さんは何度もお尻の位置を変えては眉間に皺を寄せ、なかなか湯呑に手を伸ばそうとしなかった。
「で、考えてたことってなに?」
「うん、まあ新年早々こんなことになっちゃったけど、すぐには引っ越しもでけへんし、しばらくはここで生活せんとあかんねん。それでも家賃が高いからさ」
「せやなあ、折半する約束やったんやろ?」
「うん、だから七万円くらいは予定より出ていくことになる。それで」
「ルームシェアの広告でも出すん?」
「違う」
「俺に女の子紹介してって?」
「違う」
「じゃあ男? まさか俺と?」
「違う」
「あーもうわからん、百万円ほしかった」
「賞金なんて出さへんよ。それでいろいろ計算してみたら、やっぱりきつくてさ。自炊してみようと思って」
「やめとけって。生活費で最初に削るのが食費なのはしょうがない。でも続けるのは辛いって、お前のとこのスーパーでもお一人様用の商品とか仕入れてるやろ? 安いし最近のは味もまともなの多いで?」
「でも買ってから使ってない食材もあるし、料理できたら自分の仕事にもプラスになると思うねんよ」
「で、俺に教えてほしいと?」
「うん」
「やった、はい百万円!」
「賞金は無いって」
「嫌やー、三十路の男が並んで料理するやなんて、お前新しい彼女ほしくないんか?」
確かにご主人も思い切ったことを考えたものだ。包丁を握った姿なんて見たこともないし、想像もつかない。今のご主人が包丁を持てば、切羽詰まった強盗に間違われてもおかしくないだろう。だけど、ご主人の期待に満ちた声は、金子さんの首を縦に振らそうと必死だった。
「俺は人に教えるなんてことしたないよ、お店だって一人で気楽にやってんやから」
「それやのに人気店で繁盛してるやん、教えてくださいよシェフ」
「だいたい俺は料理は見て盗めって言われてきた世代やねんぞ? 人に教えるなんてそんなん」
「じゃあお店のカウンターを低くしてくれないと見れないですよシェフ」
「滅多に店に来たこともないのになにを言い出すねん」
「生活が苦しいのに外食なんて出来ないですよシェフ」
「フーフー言うなや、まだ飲んでへんのにお茶冷めてまうやろ」
もうひと押しなのだろか、それともこの話の流れでうまくいくのだろうか。どうも大阪人という人種は漫才のリズムがDNAのどこかに組み込まれているようで、話の本筋から脱線してしまうことが多々あった。




