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「ポチただいま」
ご主人はいつもより少し遅い帰宅になった。玄関にある備え付けの靴箱に手をついて靴を脱ぐご主人の後ろには、家の中を覗き込む金子さんがいた。
「ええところやなあ、外見てもいい?」
この家に来るのが初めての金子さんは興味を抑えられず、ご主人を追い越してリビングに入ってきた。そして黒い細身のジャケットを脱ぐと、見慣れた白いワイシャツ姿の金子さんになった。
「広いなあ、2LDKっていうんか? 俺やったら持て余すわ。眺めもいいやんか、ここで家賃なんぼなん?」
「管理費と水道代込みで十三万五千円、電気代は別やけど」
「築十五年くらいやろ? 内装はフルリノベーションしてるんちゃうん? 新築と変わらんやん、すごいなあ。小百合ちゃんは今日はまだ帰ってへんの?」
上着を脱ごうとコートのボタンに指を掛けたご主人は、うつむいて途端に表情を曇らす。金子さんにまだ話していなかったのだ。僕だってまだ信じられない。キッチンや洗面所、このリビングだってなにも変わっていないのだから。こつ然と姿を消した彼女が、この家に一緒に引っ越して来たのかさえわからなくなる。だけど、床に置かれたご主人の鞄の音が、一人と黒猫一匹で住むには広すぎて物がなさすぎる家の中に反響した。
「別れてん」
ご主人は長くなりそうな沈黙を嫌ったのか、感情をどこかに置き忘れたような、誰かに書かれた台詞を読み上げるように答えた。
「いつ?」
「昨日」
「理由は?」
「聞いてない。帰ってきたら荷物も無くなってた」
「またまたあ、新年初ドッキリやろ? 小百合ちゃんの部屋どこよ?」
「玄関側の右の扉」
まだ半信半疑の金子さんは苦笑いで明るく振る舞っている、ご主人が仕掛け人なら名演技だろう、僕もそうであってほしいと思った。そして金子さんはドアを軽くノックして、小百合ちゃんの部屋を開けた。そこには、暗くて冷たい現実が広がっていた。
「お邪魔します。すっからかんやん」
うつむいたまま何も答えないご主人の姿が悲壮感を増していく。寝不足と仕事で疲労がたまり、金子さんが来ていなければ立っている元気もなく玄関で崩れ落ちていたかもしれない。ご主人はなんとか平静を装って首に巻いていたマフラーを取った。僕にはその姿が包帯で隠していた自分の傷をさらけ出すように見えて、痛々しかった。
「連絡もつかへんのか?」
「うん。もう、むこうからもこっちからも無いかな」
ご主人は上着から取り出したスマートフォンに目をやることもない。もう吹っ切ってしまいたいのだろう。これ以上小百合ちゃんのことを考えないで、無理やりにでも自分の気持ちに区切りをつけたかったのだと思う。ご主人は奥歯を噛みしめてキッチンへ向かい、南部鉄器の鉄瓶に水を入れる。
「俺、部屋見て満足したから帰っていい?」
「今お茶入れるから座れば?」
「三箇日は寝正月って決めてんのよ」
「じゃあ外に出て寒かったやろ? 温まっていったらええやん。ついでに今日ずっと考えてたことがあるんやけど、聞いてくれへんかな」
「お腹痛い」
「いつも急にやな、トイレはその右やから」
そうご主人が返すと、居心地が悪そうにしばらく廊下で突っ立っていた金子さんは仕方なくトイレへ入っていった。「トイレの蓋勝手に上がるやん!」という声がした後は静かなものだった。




