プロローグ
ご主人は、懸命に涙を堪えていた。時折漏れる息は湿り気を帯び、天井が押し迫ってくるような重苦しさが部屋を包む。テレビから歓声や笑い声が聞こえると、僕の心臓は引っ掛かれた。脈打つ度に痛みが走り、どうしてこんなことになったのか、そんなことを考えることも出来ずに、時間だけが過ぎて行った。
気がつくと、年越しのカウントダウンはいつのまにか終わっていた。
ご主人と出会ったのは二ヶ月前の十月下旬。黒猫の僕は、生まれて六度目の冬が来るのに備えていた。特に決まった場所で生きているわけではなく、雨が降れば凌げるところへ、風が吹けば路地裏へと移り住んでいた。
その日はとても暖かく、これが今年最後の日向ぼっこになるだろうと思い、僕は近くの公園へと向かった。清掃員の巡回が遅いその公園には、まだ落ち葉の絨毯が広がっている。その上を駆け、ときには埋もれ、音がすれば枯葉の下の昆虫を想像する。
嫌いな季節の前に、一番好きな秋が来る。足早に過ぎ去って行くその季節を、精一杯身体で感じていた。どうして秋が好きなのか、明確な理由があれば僕も知りたい。なんとなく、騒がしい人間が少なくなって、落ち着いているからなのか。人混みに紛れて街を歩いても、迫りくる寒さに気を取られて誰も僕のことなど気にしない、そんな些細な自由を感じさせてくれる雰囲気に心惹かれるのか。答えが出たところで僕の気持ちは変わらない。わからなくても、それでよかった。
その公園には一本だけ群を抜いて背が高い木が生えていて、雄大なその姿には引き寄せられる何かがあった。僕はその木の根元へと歩いて行き、眼を閉じて風の音を聴いていた。すると、なんの前触れもなく風が止まった。振り返ってみると、そこには少し伸びて薄白くなった黒いスキニージーンの膝頭が僕の眼前に迫っていた。今まで何度も人間に近寄られたことはあった。眼と眼が合い、何かを感じるよりも先に走りだす、それが僕の日常だった。
村田純、僕のご主人になるその人間は、ただそこにいた。こんなに長い間、人間と向かい合ったことはなかった。いや、ほんの数秒のことだったのかもしれない。僕がどんな感情でこのときのご主人を見ていたのかは思い出せないが、「どうして逃げないんだろう」と不思議そうに思う眼差しが、僕に向けられていた。ご主人は目深に被ったニット帽のせいで、黒く太い眉毛は情けなく下を向き、そのたくましい体格を一回り小さく感じさせた。
不意に抱え上げられて、逆に僕がご主人を見下ろしても、向けられるその視線に変わりはなかった。そのときは、この人間にそうされるのが当たり前のことのように思えて、僕は気にも留めずに背中に当たる夕日の温もりを楽しんでいた。もっと高い場所から世界を見たこともあった。でも、初めて人間に抱き上げられた感触は想像していたものとは違い、不安定だけど恐怖はなく、僕の好奇心を煽り、それと同時に身を委ねられる不思議なものだったことに驚いた。
鼻先を通り過ぎる乾いた風が、新しいなにかの始まりを予感させていた。
僕はご主人に抱かれて長堀通りを南に下り、土佐稲荷神社の横を通って少し入り組んだ路地に並んでいる自転車の間を抜け、二階建てアパートの急な階段を登った。
「あっ、おった? 私いっつもここに来るとき何匹かおるなって思っててん」
ご主人の家に着くと、後頭部の内側を突かれるような臭いを放つ人間の女性がいた。小百合ちゃんだ。座椅子に足を伸ばして座り、手の爪に色を塗っている。上下揃いのゆったりとした白いスウェットを着て、自分の爪とこちらを交互に見ながら彼女は話し始めた。
「純君が名前決めて、私実家で四匹飼ってたからさ。黒猫やったら満足やから」
「えっ? 小百合はそれでいいの? なんも考えてなかったからなあ」
「いいから決めて、私これ乾いたら着替えて仕事行くから」
小百合ちゃんはテーブルの上に置いてあった手帳を広げ、何かを確認しながら一人で頷いている。ご主人は僕を抱えたまま「どうしよう」と言いたげに僕の顔を覗き込んでいる。大方の察しはついた、ご主人は小百合ちゃんに黒猫を拾ってくるように頼まれたのだ。ともあれ、僕にどうこう出来る状況ではなかった。「借りてきた猫」ならぬ「拾われてきた猫」なのだから、大人しくしているよりほかにやりようがなかった。こういうとき、先に行動を起こすのはいつも決まって小百合ちゃんのほうだった。
「で、その子オスなん? メスなん?」
「あっ、えっと。どうなんやろ、これオスかな?」
「もう、ちょっと見せて」
小百合ちゃんはご主人と比べると小さい。二人が向かい合って立つと、ご主人の肩辺りに頭の先がある。
日の光を浴びた夏の花壇の中にいるような匂いがするかと思えば、髪の毛からはまた違う香りが漂い、少し嗅いでみると、胸にミカンやオレンジが詰め込まれたような感じがする。目の前に靄が掛かり、突然ライトで照らされたみたいに頭がくらくらする。髪は肩よりも少し長く下に伸び、顔はそれぞれのパーツがはっきりとしている。眼は丸く、眉は細いながらもしなやかな弓のようで、鼻はツルツルしていて耳はピンと前を向いている。
「オスやわこの子。それに仔猫じゃなくて成猫やし」
「セイビョウ? ってなに?」
「大人の猫のこと。この子小さいけど多分四歳から六歳くらいちゃうかな」
「そうなん? ようわかるんやなそんなん」
「だって猫好きやもん、毛並みとかでも分かるんよ? 犬派の純君はこれから勉強やね」
小百合ちゃんは得意げに細い腕を組んでそう言った。
「とりあえず病気とか持ってないか調べて、昔お世話になってた動物病院あるけど京都やし、ネットで近場のところ探して。あと去勢もしといたほうがいいし」
「去勢させるの? ええんちゃうかな、このままでも」
「そのほうがこの子のためやの、ストレスも減るし病気の予防にもなるし。大丈夫やって、もうエッチぐらいしてるやろうし、ね?」
このときは二人がなにを話しているのかよくわからなかったけど、小百合ちゃんには猫を飼っていた経験に基づいた考えがあって、ご主人は僕のことを心配してくれているのだろうということは感じ取れた。どちらの意見が僕にとって良いことなのか、それとも悪いのか、そんなことはどうでもよく思えた。僕のことを想ってくれる人間が二人もいる、それがわかっただけで、僕はここにいてもいい存在なのだと胸を撫で下ろした。この冬を乗り越えて、暖かくなるまでやり過ごせるのであれば、それで僕は満足だった。




