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――傘、忘れたの?
出会いはいつも唐突で、一瞬だ。
アスファルトに叩き付ける雨の音がひどくうるさいのに、君のその穏やかで透明な声だけは良く聞こえた。
なんの音にも邪魔されず、するすると頭の中に入ってきた言葉を理解するのにそう時間はかからないはずだった。ただ、あまりの透明さに息が詰まって思考が停止した。
私の頭二つ分は大きい彼は、細身で垂れ目の気遣い屋さん。
困っている人がいれば誰にでも声をかけるし、その持ち前の笑顔と気さくさで誰からも愛されるような存在だ。勿論今の私も例外ではない。傘を忘れて立ち尽くしているであろう私に、彼はいつものように助けようと声をかけたのだ。
無いのは傘ではないんだけど、それは彼の知ったところではないだろう。
一瞬後に追いついてきた思考回路で絞り出した答えがそれだ。だが、ここで傘を受け取らなければ、彼の善意の思いやりを無にしてしまう。でも、傘を受け取ったところで私は校内から出ることができない。
(あーあ。まいったなぁ)
彼が笑顔で傘を差しだしてくれていたのなら、こちらも笑顔で持っている趣旨を伝えられるのだが。なぜだか今日の彼は至極真剣な顔で私の目を見ているのだ。彼はすべてを察知したうえで私に声をかけてきたのかもしれない。ひるめばきっと彼は私を助けようと尽力を尽くしてくれるかもしれない。いや、彼はそういう男だ。絶対に無くなった私の靴探しを手伝ってくれる。
同じクラスってだけでなんの接点もないのに、彼は本当におかしな奴だ。
「ごめん、聞こえなかったかな?・・・・・・傘、ないの?それともなくなったの?」
カバンの中の傘を取り出そうとした瞬間だった。
彼は知っている。
なにもかもお見通しなのだ。
私を見る彼の瞳は大きくて、驚いて呆けている私の姿を反射していた。いつもはやわらかい垂れ目でニコニコしているから気が付かなかっただけで、彼の真剣なまなざしは、いつもと違う風に空気が澄んでいく。
雨の音はもう聞こえなかった。
どれくらい経ったのか、気が付くと私は彼と一緒に玄関ホールの隅のベンチに座っていた。近くの自販機でパックのコーヒー牛乳を買って、静かに時が流れるのを待っている。
彼は何も話さないし、何も聞いてこなかった。ストローのすする音だけが響く吹き抜けのホールは静かで、スレンドガラスから零れる暗い光がいつもよりずっと綺麗に見える。遠くで雨の音が聞こえるが、そんなの一切気にならないくらい、ここは神秘的で世界から隔離された別の空間なのだ。
その時ついポロっと口を滑らせてしまったのだ。
「靴がね、なくなったの。」
ストローの先を噛んでぺったんこにした彼は、飲み終わったパックを器用にゴミ箱へ投げ入た。普段品行方正な彼からは考えられない振る舞いで少しだけ驚いた。
「なら、探さなきゃ。」
振り返ってふにゃりと笑った彼は、いつものように目じりを下げて優しく私の手を取った。そこまで甘えるわけにはいかないと思っていたが、彼に手を引かれたときに、私はなんだか心が高揚して知らない世界に足を踏み入れたような感覚にとらわれていた。
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