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昨日、打った薬が切れてきたのか、今日の朝はいつもよりも体が重い。
「うっ、うぷっ。ゴハッ、ゴホッ」
僕はこの日、朝から桶の前でずっと顔をうずめていた。桶の中には黄色い胃液がたまっている。
「ナースコールすれば?」
彼女が雑誌を片手に僕のげろ姿を見ている。病院に慣れているのか、この程度の人間の弱り果てた姿を見ても眉一つも動かさない。
「だ、大丈夫だ。そ、それに言ったろ。僕は別に長生きしたいわけじゃない」
「あっそ。勝手にすれば」
ここ数日の間に僕とこの彼女の関係は妙に接近した。まったくの他人から、今日の体の体調、病院の食事など、世間話程度であれば、会話が飛び交うようになってきた。長い間、病院暮らしの僕にとってもこれは初めてで、こんな風に話していることが不思議だった。
「勝手にするさ…… うぷっ」
僕は今日、まともな一日を送れる気がしない。頭がぐるぐると気持ち悪く回るなか、ハッと確認しなくてはいけないことを思い出した。
「今、何時だ?」
朝からこんな状態なので忘れていたが、時間よっては大事になる。
「さぁ。自分で見れば?」
彼女はめんどくさそうにし、ペラペラと雑誌をめくっている。
「見れたら、見てるさ。頼む…… 見てくれ」
「なら、貸しね」
「分かったから早く!」
僕は今にも吐き出しそうな、気を抑え込むの必死でなにふり構っていられなかった。彼女は僕とは対照的にのっそりっと、ベッドの横にある時計を身をよじりながら見た。
「えーと。もうすぐ十二時かしら」
「明久、体の具合をどう?」
彼女の声にかぶさるようにお母さんが病室に入って来た。
―― まずい……
僕が病室の扉を見たときには、お母さんは僕の弱った姿を目にしていた。お母さんの顔から血の気が引いていくのが分かる。お母さんの手から滑り落ちた花がパサンと病室に散らばる。
「明久! 明久! だ、大丈夫…… は、早く! ナースコールを!」
「―― 待っ」
お母さんの耳にはもう僕の声など届いていなかった。僕が言い終わるのを待たずに、お昼のサイレンの代わりにナースコールの警報が病院になり響いた。ナースコールを聞きつけた医者と看護師が僕とお母さんの周りを直ぐに取り囲んだ。
「何かあったのですか!」
慌てて入って来た、僕の担当でもある看護師の木下が冷静な声でお母さんから状況を聞いた。
「あ、明久が…… 明久が……」
お母さんが木下に足元にしがみつき、言葉にならないうめき声を上げている。
「落ち着いてください。明久君は大丈夫ですから」
木下が必死にお母さんをなだめている。そうしている内に、僕の治療が始まった。胸を開けられ心臓の音を確認した後、体温のチェック、血液の値、手際よく工程が進められていく。僕のカルテだろうか、医者が真剣な眼差しでファイルを見ている。
「うーん。少し熱があるな後、むかつきか……」
「薬がきれた反動でしょうか?」
「多分な…… 今日はまだ打ってないのか?」
「はい。まだ、効果が持続している状態なので今、打てば薬の副作用が出るかもしれません」
「なら、今日はこのまま様子見だな」
医者が一通りの見解を見出すと、僕のお母さんのもとへ歩み寄って行った。僕の体の状態を告げているのだろう。お母さんの顔は青ざめ、今にも大声を上が泣き出しそうだ。
その顔はもう、やめてくれ……
そう、叫びたかった。お母さんのその顔を見ると、自分の胸を無償に握りつぶしたくなる。病気の発作ではないのだけれど、切れ味のいいナイフ見たいなものが僕の胸いや、それより深いどこかで確かに僕の胸をザクザクとえぐっている。
「も、もう大丈夫だから…… お母さん」
医師達が去ったあと、お母さんは僕の側にまで駆け寄り、僕の手を握っていた。お母さんは僕が心配でたまらないのだろうか……
帰ってくれ……
お母さんに目で訴える。けれど、お母さんは笑って僕を見返すだけ…… あぁ…… これはもう、治らないのか。僕は不治の病を発病してしまった。余命三カ月、別に、二個三個、病気が増えたところで構わないが、治療するのはつらそうだ。
「やっぱり、ここにお母さん泊まったほうが……」
「大丈夫。お母さんは家のことで大変でしょ? 僕、いい子にしているから」
「—― そう。じゃぁ、また来るわね」
お母さんは僕に背を向けるとトボトボと重い足取りで病室を後にした。何回も振り返るお母さんに笑顔で答える僕の顔は自分でも分かるほど、引きつっていた。先程の騒がしさが嘘のように病室は静かになる。僕は疲労困憊とベッドに力なく倒れた。気が緩みすぎてまた吐き気がしてきた。
「来てほしくないなら、来るなって言えばいいのに」
雑誌ごしに、彼女が話しかけてくる。彼女は僕の治療中もずっと雑誌を読んでいたのだろうか、図太いやつだな。
「うるさい……」
「あなた、やさしいのね」
「どこが?」
僕はベッドから体を起こし少女と向かいあった。
「だって、お母さんに心配かけないように頑張ってた。へたくそな、作り笑いまで浮かべて」
雑誌を自分から離し、彼女は僕に顔を見せた。
「それは違う。もし、元気ないところを見せたら、また余計に延命されてしまうから無理にでも元気に振る舞っているだけだよ。やさしいとか、そんな甘いこと言うのはやめてほしい」
「ふぅーん。ねぇ、あなたはどうして生きようと思わないの? もしかしたら、あなたの病気は治らなくても、延命できるかもしれないじゃない。私、死んだことないから分からないけどさ、死ぬって多分、つらいよ」
自分の余命を世間話のように話した彼女が『死』に対して悲しそうな表情をした。つらいか…… 僕だって、そう思っていたよ。だから、僕はこうして今、生きている。だけど……
「死ぬよりつらいことってあると思わないか。僕はお母さんのお腹から出て、目を開けたときには僕はこの病院で一生暮らすことが約束された。僕は今まで、この病院から出たことがないんだ。みんな未来は無限に広がっているっていうじゃない。僕には、信じられなかった。だって、僕の未来はこの病院で死ぬことしかないんだよ。こんな風に考えるようになったら、急に生きることが馬鹿らしくなったよ。君はそんなこと思ったことないだろ? 決まった未来に向けて、ただひたすら同じ毎日を消化するって僕、死んだことないから分からないけどさ、多分それって死ぬよりつらい」
毎朝、七時に起きて朝食を食べる。お昼までに、薬の投与と体調のチェック。十二時半に昼食。食べた後は、体のだるさからか、夕食まで睡眠。そして、寝る前にもう一度、体調のチェック。僕が日記を付ければきっと、その日を過ごさなくても僕は日記を書けてしまうだろう。
「なら、君は死ぬよりつらいと思っている、この毎日から逃げずにこのまま死ぬの?」
「死ぬよ。だって、死んだほうが楽に決まっている」
死んだら、多分僕の胸の痛みも消えるだろうし……
「それ、本気で言っているの?」
「当たり前だろ。余命三カ月の病人ジョークかと思ったか?」
「なら、今死んで」
「は?」
「聞こえなかった? 今、すぐに死んでみてと言っているのよ」
「ど、どうして、死ななくちゃいけないんだよ!」
「死んだほうが、楽なんでしょ? それとも、あなたは口だけのチキンヤローなのかしら?」
こいつ、本気か?
「ほら、これで喉一突きすれば、あなたは楽になれるわ」
彼女が僕のベッドの上に投げてきたのは鋭利な果物ナイフだった。
「受け取りなさい」
僕は言われるがまま、ベッドに置かれた果物ナイフを手に取る。指の腹で刃をさすって見る。ザァーとした感触がするが、別に痛くはない。彼女は僕の方をじっと見つめて目を離さないでいる。
「早くして」
「あ、あぁ……」
喉ぼとけぐらいに、ナイフを運ぶと、自分の方に刃を向けた。
「…… 本当にやるのか?」
彼女からの、返答はない。ただ、じっと僕の方を見つめ僕の次の行動を待っている。
首の近くにナイフを自分の意志で持っていく。初めての体験だからか、思うように僕の右手が動いてくれない。自分の左手で自分の右手を抑えながら、ゆっくり、ゆっくりと自分の首に近づけていく。刃のヒヤッとした感触を首に感じた。冷たい、冷たい…… 冷たい…… 寒い。背筋がゾクゾクとする。
「どうしたの?」
「ま、待ってろ…… い、今、今、するから……」
するって…… 何を? 僕は本当にこのナイフを首に刺して死ぬのか? それでいいのか? いや、それでいいんだ。僕は死んで楽になるんだ!
僕はもう一度、ナイフを強く握った。震え右手も左手で押さえる。震える体は、足をベッドの端にからませ固定した。あとは、首元についたナイフを数センチ動かすだけ…… う、動かせば…… 死ぬ。死んだ後…… 死んだ後は僕はどうなるんだ? 焼却され、埋葬される。違う…… そういうことじゃない。僕が思っていたより、死ぬって……
「怖いでしょ?」
彼女の言葉に、一瞬ハッと息を呑んだ。彼女は当たり? と僕の顔色をウキャウキャと伺っている。
「…… 怖くない」
僕は小さな子供なような駄々声をあげる。
「—― 嘘つき。表情でバレバレよ。そんなに、顔をこわばらせてさ、あなた嘘へたくそ」
「君は…… 僕が死ねないって、どうして分かったの?」
「うーん。別に、分かっていたわけではないよ」
「なら、何を根拠に!」
「そうね。とりあえず、その、果物ナイフこっちに投げて」
僕は果物ナイフを彼女のベッドに投げ返した。彼女が躊躇もなくナイフを拾い上げると、彼女はそのままの勢いで自分の手首を切りつけた。
「な、何してんだ!」
「大丈夫よ。死なないから」
「死なないって……」
彼女の手首からはドロドロと血が彼女の腕をつたって流れ落ちている。見るからに、すぐに止まるような血の量ではい。彼女は自分の血を見て、痛そうな表情を浮かべることも、目をつぶり逸らそうともしない。ただ、またじっと自分の血が流れていく様を見ている。
「あなた、どうして僕が死ねないって分かったのかと聞いたわよね。それはね…… 私も死ねなかったからよ」
彼女は切りつけた腕の服の袖をまくると、自分の手首を僕に見えるように見せてきた。血のしたたる生々しさに僕は直視できなかったが、彼女の腕に痛々しい無数の切り傷の跡を見つけた。僕の体にも何回も手術した傷があるが、手術の傷とは全くの別物だった。手術のような、体を気遣ったケアなどない。自分を殺すために傷は彼女の悲惨な過去を物語るかのように彼女の白い肌を深くえぐっていた。
「君は怖くなかったの?」
「怖かったよ。怖かったから、今私は生きている」
彼女は止血のため自分の腕に包帯を巻いていく。
「…… どうして、そんなことを」
ポタポタとまだ、彼女の血は流れ落ちている。自分を何回も殺すというのはどんなに怖いことなのだろうか。彼女の口調とは裏腹に彼女が言う怖いは僕が想像するよりも重く、冷たいものなのだろう。
「死にたがってた、あなたがそれを言うの? まぁ、理由はあなたと似たようなものよ。この世に生きる意味をなくしたから、死のうとした」
「今の君には生きる意味があるの?」
「—― ある。だから、私は死ねない」
死ねないか…… 僕はこの言葉を久しく言っていない気がする。余命三カ月、同じ余命なのにどうして彼女と僕はこうも違うのだろうか。生きるのに、意味なんて考えたこともなかったな…… 人は生かされ、死んでいく、ただそれだけだと思っていた。
「最初、君は僕と同じ日に死ぬのはおもしろいって、言ってなかった?」
「あぁーそんなこと言ったかも…… でも、なしで。ブッ、ブッブ―ブー 残念でしたー!」
彼女は体の前で、自分の体で大きなバツを作り、キャ、キャと笑った。僕は彼女のように、心の底から笑えるだろうか。僕が生きる意味を探すことができたならば、僕はまだ、生きられるだろうか……
「僕は生きる意味を探すことができると思う?」
「もちろん!」
今度は大きな丸を頭の上で彼女は作ると、顔一杯に平たい笑顔を浮かべた。ニヒヒヒと誘い笑いをしてくる彼女に僕は頬を緩め少し乗ってみた。