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「明久君、春子にちゃんと伝えられたのね」


「うん。これも、木下さんのおかげだよ…… 最近ここがすごく体調いいんだ」


 そう言って僕は胸より更に奥深くにあるものを手で押さえた。木下は微笑むと、僕の手の上から自分の手を添えてきた。


「いい音、しているわ。これなら、まだ生きれそうだね」


「うん……」


「元気ないわね。どうかした?」


 僕は木下にどうしても、言わなければならないことがあった。あの時、木下と交わした約束の事についてだ。


「実はさ、僕…… 春子の夢を応援することにした」


「え?」


 僕の言葉に木下の作業の手が止まった。そして、僕に事の真相を諭すかのようにまじまじと僕を見つめてきた。


「ち、違うよ。別に、春子に死んでほしいわけではない。でも、僕、春子が走っている姿見たいからさ…… だ、だめかな?」


「ううん。だめじゃないわよ。明久君がそう思うならそれでいいわ。私も、春子さんに夢を叶えてもらいたいという気持ちはあるから」


 幾分かの間があったが、木下は僕の考えを受け入れてくれた。


「よかった。ところで、今日、春子は?」


 僕の質問に、木下の顔がキョドついた。今日の朝、僕は少し起きるのが遅くなった。いつもなら春子が起こしてくるのだが、今日はそれがなかった。朝、僕は目をこすりながら春子がいるはずのベッドを見たが、春子のベッドは綺麗に整頓され、そこに春子の姿はなかった。


「え…… うん。どこに行ったのでしょうね。でも、きっとあの子なら、戻ってくるわ!」


 木下の様子もどこか変だ。僕に対応するときはいつも通り振る舞っているが、先程から時計を見てはつぶやいている。


 ―― 遅い…… と。


 病院の一階に存在するいくつもの手術室のうち一つの手術室で、ある女の子の生死をかけた手術が行われていた。その手術はその女の子の要望で深夜からの開始となったが朝になっても赤い手術室のランプは点いたままだった。


『患者の容体は?』

『今の所、安定しておりますが…… どこまでもつか』

『なんとしても、もたせろ! 生きてこの子を返せばならん!』


 いつもは白い白衣をきている医師が今日は緑の色の手術着に着替え、額に汗を張り付かせながら必死に手を動かしている。周りをサポートするものも手に緊張の汗をかきながらも迅速に作業をこなしていた。ある一人がカルテを取り出し、患者を確認している。そこには

『雲田 春子』という名前が書いてあった。


「木下さん、時計がどうかした。この後、何か予定があるの?」


 僕は今日の日付とともに、今の時間を確認した。今日は僕の中間報告から半月が過ぎ、時刻は朝の9時を過ぎたところだった。


「いや、そんなことないのだけど…… き、聞いて。明久君!」


 ブー、ブー、ブー、ブー


 木下の話を遮ぎるように、首から吊り下げた携帯が激しく揺れ始めた。木下はその連絡を待っていたのか、すぐに携帯を耳元に当てた。電話の向こう側の話に何度も木下は頷く。僕は子供心ながら、木下がここまで慌てる電話に興味を持った。静かに木下の電話に耳を立てる。医療の専門用語が飛び交うなか僕が聞き取れたのはこんな用語だった。


『く、くもだ…… 春子さん…… し、っぱい』


 何か嫌な気がした。この用語が聞こえた後、僕と木下は目が合った。木下は顔面蒼白で、目の焦点があってなかった。程無くして、木下はまだ、向こう側が話しているにも関わらず電話を切った。


「い、行かなくちゃ……」

「ど、どこに!」


 木下は僕を見ながら、ボソっとつぶやいた。僕は木下の言葉にしがみついた。木下が行く所に、僕も行かなければならないような気がしたからだ。


「春子さんの所に」


 僕は木下に肩を借りながら、二人で病室を抜け出した。木下はよそ見もせず、早足で病院の中を進んで行く。僕は周りの風景を見ながら、木下がどこに進んでいるか予測しようとしたが、見たことのない場所ばかりでまるで分からなった。


「さぁ、着いたわよ」


 木下がある扉の前で僕を下ろした。上を見上げると『集中治療室』と書いてあった。木下が扉を開けたので、僕はその後に続いて入ろうとしたが、木下が僕を手で制した。中には、木下だけが入り、僕は一人、『集中治療室』の扉の前で待たされることになった。待たされる時間が長くなるほど、僕の不安は積もっていく。


 ―― 春子に何かあったのだろうか…… 


 僕はじれったくて、扉の前で何度の足を揺すった。数分後、中から木下が、僕を呼びに来て今度は通してくれた。部屋に入ると、何人もの白衣をきた医師と看護師が僕を出迎えてくれたが、マスク越しで表情は分からないが、みんな目を真っ赤に腫らしていた。


「明久君、もっと前に進みなさい」


 僕は木下に背中をポンと押され、更に奥へと進んだ。何重にも巻かれた透明なカーテンをめくって進んで行く。そして、最後の一枚の重いカーテンを捲ると僕の足はパタリと止まった。


「—― どういうこと?」

 

 僕の目に飛び込んできたのはいつものような笑顔を見せてくれる春子ではなく、酸素マスクをつけ、機械による延命を受けた春子だった。


「この患者『雲田 春子』は手術後も意識が戻らず、ただいま昏睡状態となっています。このままだと、今日の命かと……」


 僕達の後ろにいた医師の一人が説明した。まるで、感情のないロボットのような客観的な説明だった。


「は、春子どうしてこんなことに…… 木下さん!」


『また助けてくれる!』そんな淡い思いで、僕は後ろにいる木下に抱き着いた。


「明久君…… ごめんね」


 木下はただそれだけを言うだけで、僕をあの時のように受けとめようとはしなかった。木下の顔を見るも、僕の方を避けるように目を逸らすだけだ。


「—― 嘘だ。木下さんは言ったじゃないか! 春子の病気は安静していれば死ぬような病気ではないって…… あれは何だったんだよ!」


 木下は顔を僕から逸らしたままで何も答えない。


「木下さん…… 答えてよ。まさか、僕に春子を生かすように仕向けるための嘘だったの!」


「違う! それは違う……」


 木下は何かを必死に守っているのか唇を噛みしめて決して口を開こうとはしない。


「何が違うのですか! 僕に教えてよ!」


「あ、明久…… ?」


 今にも消え入りそうな声が僕の耳に聞こえた。聞き逃すことのない声だった。


「は、春子! 明久だよ! ここだ!」


「明久の声がする…… でも、目がぼやけてうまく見えないや。明久、どこ?」


 か細い春子の右手が僕を探すように徐々にベッドから離れ上がってくる。僕はその右手を『僕はここにいる!』と力強く両手で握りしめた。


「明久だ…… うれしいな。明久、あまり木下さんを責めないで上げてほしい。これは私が望んだことだから」


「え、どういうこと? 春子が望んだこと?」


 僕が更に、春子に話そうとすると後ろから木下が肩を掴んできた。


「明久君。 今は、春子さんの言葉をしっかりと聞いて上げて…… 彼女の最後の言葉を……」


木下は春子の死期を悟っているのだろう。何度もこういう場に立ち会ってきたからから、木下の目に涙はない。むしろ、強い眼差しで春子を見ている。周りの医師たちも同様に顔を逸らすことなく春子を見ていた。


「わ、私は明久の生きる意味を守り…… たかった。けど……ね。守れなかった」


 ハァー、ハァーとした荒い呼吸ながらも、春子は声を振り絞る。


「守らなくても、良かった。ただ、僕の横で生きてさえいてくれれば…… それが僕の生きる意味のひとつだから」


「ふふふ、それも良かったかも…… ね。隣に、明久が居て、木下さんがいる。きっと楽しい…… ううん、楽しい半月になったわ」


「だったら、どうして!」


 僕は更に、握る手に力を込めた。それに、反応して春子も微かに握りかえしてくる。しかし、その力は徐々に弱まってきていた。


「だって、幸せだったから…… 明久と一緒にずっと居たかったから。明久に、見てほしかった。私の走る姿…… でも、失敗しちゃった。死人が欲張ると何もいいことない…… ね」


「そんなことない。春子が欲張るなら僕も欲張る。春子とずっと一緒に居たい! 見たい! だから、死ぬな!」


情けなかった。今の僕にはただ、春子が弱っていく姿を見て、喉をはらすぐらい叫ぶことしかできなかった。


「明久、それは欲張りずぎ…… でも、やっぱり良いことないわね。明久の声聞いても、さっきから目が重くて開かないんだもん。マスクをしているせいか、呼吸しにくくて苦しい……」


 春子の言葉を聞いて、木下がそっと後ろから、手を伸ばし春子のマスクを外した。木下がそう、判断したのだろう。マスクで隠れていた春子の表情が最後によく見えた。


「春子、笑っているのか?」


「だって、今も幸せだから……」


 春子は一瞬だけ、僕にいつもの笑顔を見せた後、眠るように息を引き取った。雲田 春子は余命一ヶ月を残し、僕よりも先に天国へと旅立ったのだった。


この前の話を番外編とさせて頂くので、話して的には9話となります。

この話だけ読んでも、しっくりとこない部分があると思いますので、10話をお持ちして頂きたいと思います

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