T・記憶の中へ
「俺が卒業する二週間前と言うと、ちょうど五年前か」
二月も終わりを迎え三月が目の前に迫り始めた日の深夜、俺は水野蕾に出くわした。残業帰りで終電を逃してしまい、タクシーを捕まえようとするでも無く、ただなんとなく、無心に近い状態でぶらぶらしているときだった。
「城先輩ですか」
最初は空耳かと思った。でも違った。声の主が目の前に立っていたのだから。
「おまえ、蕾だろ。ぜんぜん変わらないなぁ。久しぶり」
「お久しぶりです、先輩。良かったら、これから飲みませんか」
そう言って、蕾は俺を深夜三時すぎまで営業している居酒屋へと連れ行った。
「最後に会ったのが五年も前なのに、おまえの見かけが変わってないのはどういうわけだ」
中ジョッキに二口三口、口をつけてのどを潤してから、尋ねる。
「五年や、そこらで人は変わらない。そういったのは城先輩でしたよ」
そういえば、そうだったなと記憶の紐を解いていく。
高校を卒業する二週間前、すでに俺は大学への進学が決まっていて暇を持て余していた。このときに、大学を中退することが分かっていたら、俺は焦っていただろうか。
確か、その日の朝は日課どおり、近所のファストフード店でコーヒーを飲んでいたんだろうと思う。ガキの癖に、生意気にもブラックで。日曜だったからいつも異常にのんびりしていたはずだ。
そう、ここでだ。ここで蕾が現れた。
「先輩、発見」
そう言うと、断りもせず、悪びれもせずに向かい合うように彼女は座った。記憶ではそうだ。ただ記憶が、でっち上げられている可能性も無きにしも非ず、といったところだ。そのときの蕾が、期待と興奮と焦りとをごちゃ混ぜにしたような顔をしていたのは間違いない。と、思う。
「蕾、何でいんの」あくびをかみ殺しながら尋ねた、はず。
「先輩っ、先輩。聞いてくださいよ」
弱小、常敗剣道部の部員同士ではあったが、恋人同士と言うわけでは無いのに水野蕾はいつも、子犬のようになれなれしく無邪気だった。いや、俺に対してだけでなく、誰にでもそうだった。そして、周囲はそんな彼女に冷たかった。そしてそして、たぶんそのことに気づいてさえいなかった自分が唯一の彼女の柱だった、という可能性もある。
今思えば、そんな中彼女が耐えてきた苦痛は想像すると、悲しい。すごく悲しい。
蕾が、「計画」の話を終えるまで俺は黙って聞いていた。
「っということです。どう思いますか、城先輩」
「お前の家五年も前から、そんなことになってたのか」
数秒間、声を失った。のどが渇ききって心が砂漠になっていく。手に持っていた紙コップを、口にもって行こうとするが動かない。その間、蕾の顔は何かの期待を抱いているかのように輝き続けていた。やっと言葉が出る。
「親父さんを、恨んでいるのか」
「恨んでなんかいませんよ」と即答され、俺は戸惑った。
「でも、怖いんですよね、毎晩。だからもう、こうするしかないと思うんです」
「捕まってもいいのか」そう尋ねても、彼女の顔は歪みすらしなかった。
「城先輩、この計画が成功したら、きっとハッピーエンドを迎えられる気がするんですよ」
もう何を言っても、彼女には無駄な気がした。でも言ってみた。言うしかないじゃないか、と頭の中の何かが叫んだ。
「時が解決するのを待って見ろよ。五年ぐらいじゃ人は変わらないんだ。十年先、二十年先まで待ってみろよ」と確かこう言った。
五年も、虐待に耐えてきたアイツにこの言葉は無責任すぎた。俺はやっぱり柱じゃないな、思い上がりだな、と気づきそして、後悔する。
最後に何と言って、蕾が店を出て行ったのかは覚えていない。記憶なんてそんなものだ。
お客さん、着きましたよ、と起こされたのはタクシーの中で、マンションの目の前だった。ただ、居酒屋の中ではなく、目の前に水野蕾がいないことだけが気になる。
彼女が、以前よりも遥かに幸せそうに見えたのは気のせいだったのだろうか。
人は変わるが、記憶の精度は相変わらず変わらないものなのだと思った。そんな夜だった。