抽斗の中のラブ・レター
認知症の父が入院したらしい。
夜中に一人で外に出ようとして、玄関で転び足を折ったためだと、電話口から忙しない母の声で聞いた。男手が欲しいから、一日戻って来てほしい、とも。
姉が結婚をして出て行き、俺が仕事の都合で出て行き。長らく一人で父の介護をする母の懇願に、いかに薄情な息子と言えど、帰らないわけにはいかなかった。
実家に帰るのは憂鬱だった。
呆けた父と顔を合わせなければならないせいだ。
きっとまた、繰り返し聞かされることになるのだろう。
飽きるほどに聞いた、父の、昔の恋人の名を。
○
父は俺とよく似た朴念仁だった。いや、俺が父に似ているのか。分厚い眼鏡の痩せた体つきで、口数はそれほど多くない。毎日母の買ってきた服をそのまま着て、左右で色の違う靴下を履くような、そんな男だ。
三十の時に、二十七だった母と見合い結婚をした。当時にしては、二人とも遅い結婚だった。きっと二人とも、色恋に縁遠かったのだろう。父が呆けはじめるまでは、俺も姉も、勝手にそう思い込んでいた。
父の認知症が始まったのは三年前からだ。今でもよく覚えている。俺が就職して、初めて給料をもらった日。両親にそろいの湯飲みを買って実家に帰った。その日。父は俺から湯呑の一つを受け取って、母に向かって言った。
「ケイちゃん、おそろいやね。ちょっと照れるなあ」
ケイちゃん。
聞いたことのないその名に、母の顔が凍りついたのを見た。
父はそれ以来、「ケイちゃん」の名を繰り返し呼ぶようになった。
○
人は呆けたときに、一番幸せだったころの記憶を繰り返すのだと、誰かから聞いたことがあった。
父と「ケイちゃん」は、大学時代から数えて、十年来の恋人だった。十九から二十九まで、母と結婚する一年前まで、「ケイちゃん」は父の恋人だった。父とケイちゃんは大学の同級生で、一年浪人をした分だけ、父が一つ年上だったという。
このことは、父がすっかり呆けた頃、母自身から聞いた。
「見て、これが大学生のお父さん」
あの時、母はそう言って、俺と姉に写真を見せた。写真には、父からそのまま年齢だけを差し引いたような、冴えない眼鏡の男が映っていた。父の周りには数人の男女がいて、母はそのうちの一人を指で示した。
「それで、この人がお父さんの昔の恋人、慶子さん」
長い髪の、少したれ目がちな女だった。写真の中の彼女は父から離れて立ち、誰かと談笑しているらしい。はにかんだ頬にえくぼが浮かんでいる。
父に似合いの、穏やかそうな人だと思った。
父が関西の田舎から東京へ出てきたのは、大学を卒業した二十三の時だった。
慶子さんは地元で就職していた。父も、はじめは地元の小さな会社に勤めるつもりだったらしい。そこで二人働きながら、一緒に暮らす気でいたのだという。
しかし、結局それは叶わなかった。慶子さんの両親の反対にあったのだ。慶子さんの父は昔ながらの堅気な人で、両親を早くに亡くし、天涯孤独である父のことを認めてはくれなかった。給料も一人で暮らしていくのがやっとという若すぎる父には、とても大切な一人娘をくれてやれるものではなかったのだろう。
だから父は、東京に出てきた。大卒で得た就職先を蹴ってまでして、恋人を置いて東京に仕事を求めてきた。当時の父には、ここで一旗揚げてやろうという、彼らしからぬ野心に満ちていた。よくある田舎者の夢物語だ。
「ケイちゃん、五年や。五年だけ待っていてください。必ず、君を迎えに行きます」
東京行きの列車を待つ駅で、父は恋人にそう言った。五年間、慶子さんはその言葉を信じて待ち続けた。
昔のフォークソングみたいだ。母の話を聞きながら、俺はそう思っていた。
結局、五年たっても父は慶子さんを迎えに行くことは出来なかった。
現実はドラマのように上手くはいかない。父は成功者にはなれなかったのだ。
大見得を切って田舎から出てきた五年間、毎週のように送り続けた手紙も、六年目に途絶える。父が二十九の時だ。
父の手紙が途絶えてからも、慶子さんからの手紙は届き続けた。父がそれをどんな気持ちで受け取ったのかは知らない。すべては雑多な父の抽斗の中。手紙が残されているだけだ。
だが、父が三十を目前にした二十九歳最後の冬。慶子さんから受け取った手紙が、父の背中を押したのは間違いないだろう。
慶子さんはその年、見合いをした。慶子さんの父の選んだ相手だという。家柄は申し分なく、高給取りで、相手方も乗り気なのだと、手紙にはそう書いてあった。
父は、それでも慶子さんを迎えには行けなかった。
同じ年、父も見合いをした。父の小心なプライドがそうさせたのだろう。自分だけが慶子さんを思い続け、みじめに東京で暮らしていることに耐えられなかったのだ。
そんな彼のやけっぱちな見合いで出会ったのが、母だった。
○
久しぶりに見る父は、驚くほど老いていた。細い体はなお痩せて、髪は薄く、すっかり白くなっていた。手の皮膚がたるみ、爪が固く変色していた。
「ケイちゃんはどこや」
父は、父のために茶を注ぐ母の横で呟いた。声も弱々しく、変わり果てている。
「ケイちゃん、ケイちゃんに会わんと。言わなあかんことがある」
「慶子さんは、ここにはいませんよ。はいお父さん、お茶」
ぬるく冷ましたお茶を父に傾け、母は言った。使っているのは、俺の初任給で買った湯呑だ。父はその湯呑を両手でつかみ、母が取り落とさないように湯呑の底を支えている。
父はひと口、ふた口と目の前の茶を不器用に飲むと、また思い出したように顔を上げる。
「ケイちゃんに会わなあかん」
そしてその言葉さえも忘れ、目の前の茶を口に含む。その繰り返しだった。
「ずっとこんな調子?」
恐る恐る尋ねれば、母は困ったように目を細めた。
「年を取ったら、仕方ないことよね。でもあんたが来てくれて助かったわ。病院はなにかと、要りようだから」
そういうことじゃないんだ。口には出せず、俺は母から目を逸らした。
だから、帰ってきたくなかったんだ。
○
父の呆けは、「ケイちゃん」と同棲を始めた、学生時代の記憶から始まる。
幸せだった若かりし頃。穏やかな二人暮らし。それは父の呆けが進行するほどに、少しずつ様相を変えて行った。
同棲を始めたばかりのぎこちない父。次第に暮らしに慣れ始めた頃。二人でいるのが当たり前になり、卒業したら結婚しようと囁き始める。幸せな記憶をたどるように、呆けた父の時間が流れて行く。
そして大学を卒業したとき、父の時間は止まった。
東京行きの列車の中。故郷に置いてきた恋人を想いながら、父の記憶は混濁し、完全に支離滅裂となった。
「ケイちゃんに会わなあかん」
今の父が覚えているのは、かつての恋人と交わした、いつか迎えに行くという約束だけだった。
姉は、そんな父をすっかり軽蔑していた。姉自身が結婚をしているせいもあるだろう。姉は最初から母に同情し、母に感情移入していた。
「お母さんが世話をする必要なんてない」
姉は何度もそう言っていた。三十年間一緒にいても、父は昔の恋人ばかりを想っている。母がどれほど献身的に介護をしても、呆けた父は一度も母の名を呼んだことはない。だいたい、三十年前の恋人の手紙や写真を、ずっと捨てずに取っておいていること自体がおかしいのだ。父は、ずっと浮気し続けていたようなものなのだ、と。
俺も、もう二十七歳になった。父と結婚したときの、母と同じ年だ。
父と母が、生まれながらに俺と姉の父と母だったわけではないことを理解できる。父にも若い頃があり、母にも父とはまた別の、若い頃があった。だから、父にかつて恋人がいたことを、子供のように潔癖に拒絶するようなことはしない。
ただ、寂しく思うだけだ。
父の心に残っているものは、子供でも妻でもない、俺の知らない誰かなのだ。
○
父は見合いで結婚した。
だが、慶子さんはしなかった。慶子さんの最後の手紙には、見合いを断ったということだけが書かれていた。父と慶子さんの手紙のやり取りは、そこで完全に途絶えた。
○
少し外の空気を吸ってくると言って、母は病室を出て行った。やはり付きっきりの看病で気が滅入っていたのかもしれない。父が老けたのと同じく、母もずいぶんと老けたように見えた。
外は風があるらしい。窓から見える電線が揺れている。冬の日差しが寒々しく、病室をより冷たく感じさせた。人気がないせいもあるだろう。病室にはベッドが四つあったが、そのうち二つは空いていて、もう一つはカーテンが固く閉ざされたまま、寝息さえ聞こえない。人がいるのかどうかさえわからなかった。
父は母がいなくなっても、変わらず「ケイちゃん」を呼び続けた。父の黒い目はうつろで、どこを見ているのかさえ分からない。
「ケイちゃん、会わな。会いたい。会いたいです」
「……父さん」
「会いたいです、言わないといけないことが、あるんです」
「父さん、会ってなにを言う気だよ」
返事はない。父の耳に、俺の声は入らない。父の目には俺は映らない。父の心の中には、もう家族はいなくなってしまったのだろう。
人は呆けたときに、一番幸せな記憶を繰り返すのだそうだ。
父はきっとやり直したいのだ。三十年前の手紙から。恋人と別れたあの駅から。
母も、姉も、俺も、誰もいない時間まで、父は記憶を巻き戻した。そうして幸せな時の中、得られなかった恋人を追い続けているのだ。
「父さん、その人はそんなに大切なの?」
恨みたいわけではない。たとえ父に、ずっと想い続けていた人がいたとしても、父は家族を大切にしてくれた。子供を子供として可愛がり、母を母として敬った。父の内心は誰にも気取られることはなく、俺たちは平凡で、今から思えば幸せな家族だった。
「父さん」
父の顔を覗き込む。彼の瞳は、俺を透かしてどこか遠くを見つめていた。
「ケイちゃん、会いたいです」
顔の皺を歪ませて、喘ぐように父は言う。三十年。無数の皺を刻みながら母と三十年を過ごしても、父が呼ぶのは母ではない。父はいったいこの三十年を、どんな気持ちで過ごしてきたのだろう。
「ケイちゃん」
父に寄り添う立場で見れば、望まぬ結婚をしながらも、父親としての責務を果たしてきた父は、もしかしたら同情や尊敬を受けるべき人間なのかもしれない。恨み言も口に出さず、真実を自分の中だけに押しとどめてきた、健気でいじらしい人間なのかもしれない。あるいはたった一人の恋人を思い続ける、一途で純な男なのかもしれない。
「ケイちゃん」
「父さん」
父の声を遮るように、俺は父に呼びかけた。
恨みたいわけではない。父のうつろな目を見つめ、俺は唇を噛みしめる。
「ケイちゃん」と父は囁き続ける。俺は自分の両手を握りしめる。恨みたくないと思う自分の顔が、無意識に歪んでいるのがわかった。
「……母さんが、かわいそうだよ」
思いのほかに掠れた自身の声に、俺は少し驚いた。束の間瞬き、それから落ち着くように、小さく深呼吸をする。病室の冷たく空虚な空気が、肺の中に突き刺さる。病室の椅子に座り直すと、ぎしりと耳障りな音がした。
「ケイちゃん」
父がつぶやく。
「言わなあかんことが、あります」
○
昼過ぎ、母と病院へ運びこむ荷物の話をしていると、看護師が巡回に来た。同い年くらいだろうか、看護師は若い女性だった。
彼女は病室を一通り眺めると、真っ直ぐに父のベッドへ向かってきた。
「失礼します」と言って彼女は父と俺たちに微笑んだ。垂れ目がちな目を細め、頬にはえくぼが見える。
「調子はいかがですか? 熱を測らせていただきますね」
どこから取り出したのか体温計を手にし、彼女は父に向かって前かがみになった。父の脇に体温計を挿そうと、手を伸ばす。
その手を、父が掴んだ。彼女は驚いたように目を丸くした。俺は慌てて父を止めようとしたが、それよりも早く父が口を開いた。
「ケイちゃん」
はっとした。父は、彼女の顔を食い入るように見つめていた。いつもどこを見ているかわからないような目が、今は正気を取り戻したかのように定まっている。
「ケイちゃん、こんなところにいたんやな。探しとった。僕は君に、言わなあかん、言わないと、いけないことがあるんです」
隣に母がいる。母もまた、父と彼女の姿を見据えている。看護師の彼女は、確かに写真の中の慶子さんと面差しが似ていた。
止めなければ。母に、父の告白を聞かせてはならない。そう思うのに、静止の言葉が出てこないのは、俺が父に似て小心だからだろうか。それとも父の横顔が、見たこともないほどに真剣だったからだろうか。
「ケイちゃん。聞いてください。僕は君に、言わないといけないことがあるんです」
静かな病室に、父の声が響く。
「ケイちゃん、僕は、君に謝らないといけないことがあります――」
○
――ケイちゃん。
あの駅で君と別れてから、もうこんなにも時が過ぎてしまいました。東京行きの列車を待ちながら、必ず君を迎えに行くと約束した。あの約束の五年を過ぎ、さらに何度も季節が過ぎ、それでも僕は、未だに君を迎えに行くことなくこんなところに居ます。
ケイちゃん。僕は、そのことを、君に謝らないといけません。
君からの手紙が途絶えてから一年。何度も筆を取ったのに、いつも言葉になりませんでした。君の名前だけを宛名に書いた白紙の手紙が、いくつも抽斗の中に入っています。
筆を取るたび、いつも頭に浮かぶのは、君への謝罪の言葉でした。君を失ったと思い込み、僕は捨て鉢になって結婚をしました。君へのあてつけだったのかもしれません。君は僕を捨てて見合いをしたのだから、僕だってしてもいいじゃないかと、そう思っていました。
だけど、君は結局見合いを断りました。僕が結婚をしてしまってから知ったその事実に、僕はどれほどショックを受けたことか、口で表すことは出来ません。君は僕を信じてくれていました。それなのに僕は、どこまでも卑小な人間でした。
結局、僕は君につり合うような立派な人間ではなかったのです。
五年たったら迎えに行くと見栄を切り、故郷を出たあのときから、僕は本当に小さな人間でした。
東京に出てから、僕は必死に仕事を探しました。だけど身寄りのない若造のできる仕事といえば、もちろん立派なものなんてありません。僕は故郷で就職するはずだった会社よりも、さらに小さい会社の職人になりました。ワイシャツさえも着られない、汗と埃にまみれて働くような仕事です。
こんな仕事では、君を迎えには行けない。もっと偉くならないと。もっと立派にならないと。そう思いながら、僕は君を残したまま五年のときを過ごしました。
君を迎えに行く。あのとき言った言葉に嘘はありません。僕は五年の間、片ときも忘れることなく君のことを想っていました。東京での僕はすべて君のためにありました。君のために働き、君のために生きていました。それだけは真実です。
いつだって君を迎えに行きたかった。いつだって君のために、故郷に戻りたかった。そして僕はきっと、見栄なんて張らずにすぐに迎えに行くべきだったのです。君が受け入れてくれることなんて、はじめからわかりきっていたのだから。
だけど僕は、そんな簡単なことに気付く前に、結婚をしてしまっていました。相手は君の知らない人です。出会って半年もたたないうちに、お互いよく知らないままに結婚をしました。
この頃の僕は、ほんとうに恥ずべき人間でした。君のことを想いながら、僕は妻となったその女性と暮らしていました。そしてそれを、悪いとも思っていなかったのです。
彼女は、なにもかも君と異なっていました。彼女は君よりも口数が多く、君よりも迂闊で、君よりも料理が下手でした。なにかにつけて君と比べながら、僕はどうしてここにいるのが君でないのだろうと思いながら暮らしていました。
彼女に対する感情は、きっと義務感と言う言葉が一番適当だったはずです。けっして恋などではありませんでした。若い僕が君に感じたような想いは、一度も抱いたことがありません。
なのに、僕は彼女と暮らすことに、次第に慣れ始めていたのです。僕は彼女の下手な料理に慣れ、彼女の待つ家に帰ることに慣れ、彼女のことを覚え、いつしか妊娠した彼女を、当たり前のように労わっていたのです。
僕は、そんな日々がいやでいやでたまりませんでした。彼女との生活が自然になっていくほどに、こんな暮らしも悪くないと、心ひそかに思ってしまうほどに、僕は君のことを思い出すのです。
故郷に置いてきた君は、僕の中では五年前のまま。駅のホームで僕と言葉少なに別れ、走り出した列車を見送りながら泣いていた。あの時のままの姿で、今もホームにいるのです。駅のホームで、東京発の列車から、僕が降りてくるのを待っているのです。
帰らないといけない。君に会いに行かなければいけない。だけど僕はこの生活から抜け出せず、焦りと後悔、罪悪感ばかりが積み重なっていきました。
きっと本当にいやだったのはこの生活ではなく、この生活をいやではないと思う、僕自身なのです。
長女が生まれたのは、そんな折でした。
ケイちゃん。僕を軽蔑してください。僕を小さい人間だと嘲笑い、そして忘れてください。
僕は本当に最低の人間です。
長女が生まれたのは、東京の下町の小さな病院でした。老いた医者と若くないナースさんのいる、よくある古い産婦人科です。生まれたのは確か、真夜中を過ぎていたように思います。
大きく膨れた腹で、苦しむ彼女を見送ってから数時間。気が気でない時間を過ごしたあと、僕は病室に通されました。
窓際の、あまり清潔には見えないベッドの上で、彼女は半身を起こしていました。ナースさんが傍に居て、彼女に対して何やらこまごまと注意を言っていました。彼女の腕の中には、白い布の塊が、大切そうに抱かれていました。
彼女は駈け込んで来た僕を見て、その白い布を差し出しました。
僕の手に渡ったそれは、やわらかく不定形で、ほやほやとした大きな餅のようでした。どうやってそれを持てばいいのか分からないうちに、布の中からほやほやとした声が聞こえてきました。戸惑いながら覗きこめば、そこにはまっかな顔をした赤ん坊がいて、くしゃくしゃに顔を歪めて泣いていました。最初はささやかだったその泣き声は、いつしかその小さな体が破裂するのではないかと思うほどに変わっていました。
彼女は苦笑しつつも、どうにもできない僕からその赤ん坊を取り上げて、胸の中に抱きました。そうして優しく赤ん坊の体をゆするのです。
暗い窓辺、病院の白熱灯に照らされながら、彼女は目を細めて赤ん坊を見ていました。いつしか赤ん坊の泣き声は、爆発するような大きさから、むずがるような小さなものへと変わっていました。
それでも彼女は赤ん坊を揺らし続ける。穏やかで慈しみに満ちた瞳を向けながら。
その横顔を見たとき、僕ははじめて、妻を美しいと思いました。
このひとを、一生守ってゆかなければならないと、僕はこの瞬間に誓いました。
だから、ケイちゃん、僕は謝らなければなりません。
僕は君を、迎えに行くことはできません。もう、君と暮らしたあの町に戻ることはできません。僕は東京で、一生をかけて妻と子供を守り、養っていかなければなりません。
約束の五年を過ぎ、君を裏切り続けた僕ですが、最後まで僕は裏切り者の最低な人間でした。
どうか軽蔑してください。罵って、嘲笑って、そして忘れてください。僕ははじめから、君につり合うような人間ではなかったのです。
僕は君を置き去りにしながら、君以外の人と結婚した人間です。そのくせ君を裏切ったつもりもなく、誰に対しても不誠実に生きてきた人間です。
抽斗の中の手紙は、きっと君に宛てる、最後の手紙となるはずです。
僕の裏切りを、恨んでくれて構いません。憎んでくれて構いません。これまでの手紙もなにもかもびりびりに引き裂いて――。
そしてどうか、僕という最低の人間がいたことを忘れてください。
○
看護士さんは微かに微笑み、慣れたように「わかりました」と答えた。
父は看護師さんの手を取ったまま、泣きながら謝罪を繰り返す。老いた父の言葉はおぼつかず、力加減が分からないのか妙に肩がいきんでいた。そうして、「ケイちゃん」といつものように繰り返す。
「ごめんなあ。ごめんなさい。ごめんなさい。僕だけ幸せになって、ごめんなさい」
冬の日差しは窓越しに、病室内に差し込んでくる。
そろそろ止めようかと、俺は横目で母に目配せをした。母は困ったように笑んでから、父を見やってうなずいた。
「迷惑をかけちゃってるもんねえ」
仕方ないわねえ、あの人は。
ぽつりと呟く母の、穏やかで慈しむようなその横顔を、あの日、父も見たのだろう。