第六話 青い炎の指先
土曜日の午後。
スマホの画面に表示されるのは高群桜羅の名前と、その下に三桁四桁四桁の数字。つまりは通話画面。あと通話ボタンに触れさえすれば、このスマホは桜羅と繋がる。
だがなかなか触れることができず、義純は自室のベットでごろごろと無駄に寝返りを打ちながら手の中のスマホを睨んでいた。
今日は午前中のうちに洗濯と部屋の掃除を終わらせ、昼食も片づけまで終えて今一段落ついたところだ。昼食は、昼前まで寝ていた恭輔が起きてきて(というか起こして。今朝はやけに寝起きが悪くて苦労した)久しぶりに一緒に食べた。メニューは恭輔のリクエストでクリームパスタだ。
「いっちゃえ」
上体を起こすと小さく声を上げてついに桜羅に電話する。
呼び出し音が鳴った。出るな、と往生際悪く頭の隅でチキンな自分が念じる。
だがそれも無駄だった。
「はい、桜羅です」
電話越しに響く桜羅の声。激しく緊張する。
「どうしたの? 義純」
そのまだ何も知らない声に胸が痛む。
だが伝えなければ。あの言葉を。
「悪い、桜羅」
伝えなければ。
「悪い。別れよう」
伝えた。
―――そうだ。これでいい。これでよかったんだ。
高嶺の花につりあうわけがないのだから。
桜羅は何も答えない。息を飲んだのだけが何となくわかった。
このまま通話を切りたくなるのをこらえる。せめて桜羅からの非難を受けとめるくらいしなければならない。桜羅なら泣くよりも罵倒だろうか。
そして桜羅の声が届く。
「本当に付き合ってもいないのに別れようなんて言わないでくれる?
三十分でそっちに行くから待ってなさい。恭輔も逃がさないで」
続く通話の終了音。
そっちって―――どっちですか?
スマホが手から滑り落ちる。夏でもないのに背中を汗が伝った。
二十四分後。
インターホンの呼び出し音が鳴った。
―――これが俗にいう修羅場か!
義純が玄関で出迎えると、そこには恐ろしく憮然として立つ桜羅の姿。休みの日だというのに、どういうわけか制服姿だ。学校にいたのだろうか。こんな状況だというのに私服姿でなくがっかりしなくもない。
「ど、どうぞ…むさ苦しい家ですが」
気まずく視線を逸らしつつ促し、桜羅は靴を脱いで上がる。
そして一歩あがったその場ですぐにきつい視線を義純に投げる。身構える義純に桜羅は問いかける。
「恭輔はどこ?」
「え? 兄さん?」
思わず間の抜けた声を出す。
恭輔にはこれから友人が来ると伝えてある。それが女だとは言わなかったが。今は自室にいるはずだ。
「そこか」
視線でつい恭輔の部屋を指していた。桜羅はその部屋の前まですたすたと進んで、ドアノブに手を掛けて義純を振り返った。
「私は恭輔に二人っきりで話があるから。
君とはその後で話をつけよう」
おかしい。
別れを切り出したのは義純だ。恭輔の名など一言も出していない。それなのに何故恭輔が関係ある?
大体恭輔と桜羅はどういう―――
「……わからねぇ」
その言葉を絞り出すのがやっと。
「なんだ、何も聞いてないんだ?
―――まったくしょうがないね、恭輔も」
桜羅はそれだけ告げると、ノックもしないで恭輔の部屋の中に入って行った。
残された義純は廊下に立ち尽くす。
何を? 何を聞いてない?
「…………!!」
廊下まで恭輔の声が聞こえた。しかも怒鳴り声ではないか。壁越しでは何を言っているかまでは聞き取れないが。
こんな感情的な声ははじめて聞く。知らなかったから―――はじめて。
恭輔の家の外でのことなど何も知らないではないか!
義純は足音を忍ばせてゆっくりと移動し、恭輔の部屋の前に立った。二人の話す声がくぐもって聞こえてくる。
そしてゆっくりとドアに耳をあてる。
心臓の鼓動が早いのは聞き耳を立てることに対する後ろめたさか。それとも何かが分かるかもしれないことへの期待からか。
「…で押しかけてくるとはどういうつもりだ」
「同級生の家に遊びに来ただけでしょ」
「何が同級生だ。高群、しかもオツキのお前が」
オツキ―――御付き? 桜羅が誰の?
疑問に思ったが口を挟むわけにもいかず、深く考える間もなく会話は続く。
「ただの同級生、義純は何も知らないんだから。貴方が何も教えないからね」
恭輔が言葉に詰まったのか、反論が小声だったのか。嫌な間が空く。
「その様子だとやっぱ、貴方から高群について聞いた義純が怖くなって振った―――ってことはなさそうだね。
教えないことについて非難するつもりはないよ。それは貴方が義純を思ってしていることだと思うから。弟に手を焼いているのはお互い様だしね。
けど―――意志を捻じ曲げるのはやりすぎでしょ」
恭輔が―――義純の意志を捻じ曲げたと、そう言いたいわけか?
だが一体何のことを言っている? 捻じ曲げた?
「貴方がやったんでしょ?
でなければ、義純が昨日の今日で私を振るわけない」
「!!」
桜羅のその科白を聞いて、義純は昨日の昼のことを思い出す。
何故桜羅を振ろうとした? 高嶺の花だから? いやそれは受ける前から承知していたことだ。
偽の恋人を承諾してから今日の昼までの一日、自分がどんな心境の変化を経て桜羅にあんな電話をしたのか、改めて考えてみれば、まったく訳が分からなかった。
昨晩まではむしろ浮かれていた。浮かれてなかなか寝付けなかったのを覚えている。だが今日の昼過ぎからはどうやって断りの電話を入れるか悩んでいた。
間にやったことといえば、洗濯して掃除して料理して片づけて。今日はそれだけだったはずだ。
それなら何故―――
「恭輔。義純に掛けた術を解きなさい。
さもないと全て義純に話すから。隠したいんでしょ? お兄ちゃん」
つまりは恭輔が桜羅を振るように暗示をかけたと?
偽とはいえつきあえば親密度は上がるだろう。そうなれば知られたくないことを知られるかもしれない。だから―――振るように意志を捻じ曲げた。
筋は通ってしまう。
けれど実の兄に暗示をかけられていたなど認めたくはない。
そうだ、恭輔に暗示をかけられた記憶などない。しかし暗示をかけられたこと自体を忘れさせることができてもおかしくないかもしれない。
そうか、それ以前にそもそも暗示だなんて本当に効くわけが―――
―――いや。
効くではないか。
それを自分は身をもって知っているはずだ。
高群桜羅の性別に関しての暗示。
そして思い至る。
まさか―――まさかまさかまさか!
その暗示も恭輔がかけたというのか!?
両親も親戚もなく、家族どころか血の繋がりがあるのは兄である恭輔ただ一人。そのたった一人に!!
「兄さん!!」
盗み聞きがばれることなど構うものか。
義純は堪らず部屋のドアを開け放っていた。
肩越しに振り向く桜羅の向こうに、驚いた恭輔の顔が見える。
「義純…」
「ちょうどいい」
狼狽える恭輔を後目に、桜羅はドアの前、つまりは兄弟の間からずれた。
「俺に何かしたのか!? 全部教えろよ!!」
「――――――――――」
恭輔を見据えて声を張り上げる義純に、恭輔は視線を逸らす。そして座っていた椅子から立ち上がると、俯き気味に歩いて義純の前で立ち止まった。
義純は目線を上げてその顔を睨みつける。
ぽん、と頭の上に手をのせられた。だが、それだけで逆上した血が下がるわけはない。むしろ咄嗟に手で払いのけようとしたが、その腕は動きもしなかった。
恭輔の指先に力が入り、ぐいぐいと額やつむじを圧した後で、ぐしゃぐしゃと髪をかき回された。
すると、そのマッサージのような効果か、思考がクリアというかもやもやしたものが晴れた気がした。
「すまない。大切な弟に彼女ができるのが寂しくてね。それでつい―――あ……。
夜中にお前の枕もとで彼女と別れるよう吹き込み続けた」
「な……なんだよそれ!」
「―――頭を冷やしてくる」
恭輔はそう言うと義純の肩を押して部屋を出て行った。
立ち尽くす義純の耳に、玄関のドアの開閉する音が届く。
「嘘だろ―――あれ」
しかも結局何も教えてはくれなかった。知らず握った拳が震える。
重苦しい沈黙。
「――――ふぅ」
そこに嘆息が響く。
そういえば桜羅がこの部屋にいたことに、ようやく義純は思い当たった。義純は桜羅の方に視線を投げる。
「兄弟関係をここまで拗らせた原因の一端は私にもあることだし。これくらいは教えてあげたほうがいいか」
そう言って桜羅は人差し指を一本顔の前で立てた。
よくある説明するときのポーズ―――ではなかった。
「!?」
息を飲む。
青い炎。
背筋がぞくりとするほど綺麗な炎。
その立てられた指の先で炎が燃えている。
ゆらゆら、ゆらゆらと音も無く揺らめいて燃える。
ライターなど何も持っていない。掌の側を義純の方に向けているのだからそれは確認できた。それに炎を出す前に火をつける動作をしているようにも見えなかった。ただ指を立てただけ。ではどうやって何を燃やしているというのだ?
超能力。発火能力。
それしか思い浮かばない。
まただ―――また。あの今まで立っていた常識が崩れる感覚。
義純は視線を炎から桜羅に移す。
「この程度はまだ序の口だから。つまりは世間一般の常識外ってこと。
それが恭輔が君にあそこまで何も教えたくない理由。納得できるかはおいといて、理解はできるでしょ」
桜羅は指を軽く振ると炎を消した。
そして小さく苦笑する。
「こんなことができる私と関わりたくないって思うのなら、恋人関係は解消して構わないから。
何も知らない君に、強要はできない」
―――今自分はどんな目で桜羅を見つめているのだろう。
ようやくそのことに思い至る。
こんな悲しげで寂しげな顔を桜羅にさせてしまった自分は、どんな顔で桜羅を見つめているのだろう。
「それじゃ、帰るね。
言える立場じゃないけど、恭輔とは仲直りして欲しい」
そう言って桜羅は部屋から出て行こうとする。肩が触れるくらいの距離をすれ違う。
「待てよ!」
義純は咄嗟に桜羅の腕を掴んでいた。
掴んだのはあの炎を出した右手。ここで手を放せばおそらく二度と掴めない距離に行ってしまう。ならどれほど震えても手を放すわけにはいかない。
「お前は何のためにここに来たんだよ!?
別れ話解消のためだろ!? その話をしないで帰るつもりかよ!?」
別れ話を解消するために来たはずが、恭輔と義純の為に別れても仕方のない事実を自分から打ち明けた。それに話がここまで拗れたきっかけは義純が二人の話を盗み聞きしたからで、桜羅に非はないではないか。
「その話はしたようなものでしょ」
「けど俺は結論を言ってない」
「今ここで聞かせてくれるの?」
「ああ。
俺が悪かった。別れ話はなかったことにしてくれ」
◆◆◆◆◆
恭輔が家に帰ってきたのは結局日曜の夜だった。頭を冷やすのにずいぶん時間がかかったものだ。
恭輔は玄関まで出迎えた義純を見るなり、靴も脱がずその場で深く頭を下げた。
「すまない、義純。
どうしても俺には全てを話すことができない。それがお前の為だと思うからだ。
けれどそれでも―――お前の兄でいさせてくれないか」
「顔を上げてくれ」
恭輔は促されてゆっくりと顔を上げる。その胸に。
義純は拳を一発撃ちつけた。
「!?」
わりと全力だったのだが、体格のいい恭輔はわずかによろめいただけだ。
「帰ってこなくて心配したんだからな!
―――俺の家族は兄さんしかいないだろうが」
「ああ―――悪かったよ」
恭輔は優しく微笑んだ。
その顔を義純は真剣な面持ちでまっすぐに見据える。恭輔もそれを同じ面持ちで受け止めた。
「桜羅に発火能力を見せてもらった。
兄さんが普通じゃないことに関わってることは分かった。だから俺に何も話せないってのも察した。
―――一晩考えたんだ」
兄の示す通り、このまま何も知らずにいた方がいいのか。
それとも隠された事実を知るべきか。
どちらの選択も間違ってはいない。ただその選択の行く末は大きく異なる。
―――自分は一体どうしたいのだろう?
この安寧な常識にとどまり続けたいのか。それは兄と常識に守られた、とても楽で心地よい選択だろう。
それとも、兄である恭輔―――そして桜羅の立つ常識外に立ちたいのか。それは大多数に理解もひょっとしたら受け入れもされない世界。
頭を過ぎったのは桜羅の寂しげな顔。
―――桜羅が常識から外れたところに立っているのなら、そこに片足くらい突っ込まなければ恋人役は務まらないではないか。
「兄さん。俺はもう何も知らないままでいられるほど子供じゃないんだ。
俺は自力で隠された事実に辿り着く。もしその事実を知って俺が後悔することに なっても、それは兄さんのせいじゃない、俺自身の責任だ。
俺に何も教えないことが最善だと信じるのなら、協力はしてくれなくていい。ただ、昨日みたいな俺の意志を強引に捻じ曲げるような妨害はしないでくれ。
俺は俺にとって、事実を知ることが最善だと信じる」
恭輔の手が伸ばされる。
頭に行きかけたその手は戻されて義純の胸を叩いた。
「いつまでも子供だと思っていたんだが―――なんて言ったら親父臭いな。
いいだろう。
お前がどこまで真実にたどり着けるかやってみろ」
「おう」
拗れた兄弟の関係は元に戻る。厳密には元と同じではなかったが、それは悪い変化ではない。きっといつか起こりうる変化でもあったのだろう。
恭輔がようやく靴を脱いで玄関に上がる。
「で、義純。今日の夕飯は?」
「カップラーメン」
「腹いせか!?」
「冗談。ミートボールスープと野菜のガーリック炒め。今温めるよ」
「お前な」
恭輔がふざけて軽く小突くのを義純はそのまま受ける。兄弟は談笑しながら食卓に向かうのだった。