第二十話 格子越しの逢瀬
空腹で目が覚めた。
義純は布団の上で上体を起こす。すると布団の脇におにぎりと急須、湯呑みが置いてあるのに気づく。何と有り難い。
喉がからからだったのでちょうど冷たくなっていたお茶を一杯飲むと、早速おにぎりに手を伸ばした。
茸と鶏肉の炊き込みご飯握り。米に味がよく浸みて旨い。空腹でなくても絶品間違いなしの味である。漬物まで添えてあるのだから気が利いている。
置いてあった二つとも食べ終えてもう一杯お茶を飲み、ようやく人心地つく。
「――――――――――――」
ぼすん、と重力に任せて布団の上に再び倒れこんだ。
―――大丈夫。
今は九歳の高群義純ではない。
十七歳の都竹義純だ。
「これで全て知ることができたんだな―――」
桜羅とつきあうことになったのが金曜日。恭輔が何か隠してると知ったのが土曜日で、日曜日にそれを知ると恭輔に啖呵を切った。それから調査を開始して、まだ金曜日。一週間しかたっていない。
いろいろありすぎてもっと長かった気がする。
探していた真実は自分の中に隠されていた。
あまりにも重くて辛い現実。
それでも八年間の都竹義純があるから平気だ。受け止められるし、耐えられる。隠されていた記憶は、今は八年前の記憶らしく「昔は」とつけて振り返るものに収まった。
昔は昔。今は今。
部屋を見回すと感じるのは懐かしさ。マンションの自室で感じる安心感とは違った感情。
そして見回したところで、襖の上の横木に制服がかけられているのに気づいた。なら今何を着ているのかと自らを見下ろせば浴衣のような寝間着である。しかも着崩れが酷い。
とりあえず制服に着替えることにして、義純は立ち上がる。
着替えながらふと気づく。
「あ―――学校…」
この部屋には時計がないので正確な時刻はわからないが、何時であろうと学校に間に合う時間であるはずがない。
「仕方ないけどさ…」
人生初のサボりで罪悪感。桜羅達も休んだのだろうか―――と考えたところでやっと思い出した。
―――なんて薄情な奴だ自分は!
「あいつ無事なのか!?」
桜羅。酷い火傷を負ったはずだ。
それに結弦は―――。自分でも扱いかねる感情が渦巻く。
誰かを掴まえて聞こうと、急いでジャケットを羽織りながら障子を開けて縁側に出る。
そこに。
「やっと起きたんだ。お早うございます、先輩」
「お早うございます。もう二時過ぎですよ」
青路と燕路がこちらに歩いてくるところだった。二人とも初めて見る私服姿が可愛らしい。青路は私服まで男物で徹底しているようだ。
「おはよう―――って、もうそんな時間!?
いやそれより! 桜羅と結弦は!?」
「桜羅ならもうすぐ白化を封印するところ。怪我は大体治ってるから安心していいよ。完治したわけじゃないからしばらくお風呂は入れないだろうけどね」
青路のその言葉を聞いて義純は肩を撫で下ろす。
「結弦の方は?」
大した怪我は負っていなかったはずのこちらこそ、答えはすぐに返ってこなかった。二人は気まずげに眼を逸らす。答えたのは燕路だった。
「今は座敷牢にいます」
「牢!? なんだってそんなところに」
「結弦だけど、結弦じゃないんだ」
「黒化は解けてたよな…?」
分かりきったことを聞いた。
「うん。結弦に憑りついていた黒狐は―――篁が内側から握り潰したから」
「篁!」
その名前を聞くと足が走り出していた。
会いたい。会いたくてしょうがない。
理由などなく感情が先走る。
「って座敷牢ってどこ!?」
行動までも先走っていた。
牢というからには敷地の隅にあるだろうという予想通り、他の建物から離れた庭の奥にそれはあった。茶室のような小さい造り。
「ここです」
燕路が遠くから座敷牢を指差す。
「ごめん、僕達はこれ以上近づけない。篁―――つまりは僕達と同じ力を抑え付けるための封印がされてるから」
「ここまでで充分だ。助かったよ」
二人に礼を述べて義純は座敷牢に近づく。壁に札が何枚も貼られ、入り口の引き戸には特に多く貼られていた。
引き戸に鍵はかかっておらず、横に引くと多少重いながらも容易に滑る。
入ってすぐは横に二畳ほどの土間。木の格子を区切りとしてその向こう、日が届かず薄暗い畳敷きの間。そこで壁にぐったりともたれているのは―――
「――――っ」
咄嗟に名前を呼ぼうとしたはずが、言葉が喉でつかえ出なかった。
たぶん、二つの名前を同時に叫ぼうとしてできなかったのだ。
「吉乃じゃないか、こんな体ですまねぇな。尾の一本でもありゃこんな術すぐに破ってみせるんだけどよ」
「何言ってるんだ篁、どうしてこんな目に!」
吉乃と呼ばれたことに引きずられる。
少しでも近づこうと格子に手を掛けて、愛しい相手の辛そうな姿に胸を痛める。焼け焦げて穴の開いた服が痛々しい。
「来るように言ったのは此処ではなく私の部屋だった筈だが、言伝が伝わっていなかったようだな」
その声にはっとして横を振り向けば―――そこには壮年の男が立っていた。和服姿の威圧感さえある立ち姿。義純が篁に気を取られ気付かなかっただけで先にいたのだろう。
「!」
義純は昔の記憶から思い出す。
思い出して、何と言葉を返したらいいかわからなかった。
自分を殺そうとした―――父親。
父親らしいことをされた記憶はなく、震えだけが湧き上がる。
だが―――父親代わりに育ててくれた兄の記憶があるではないか。それを意識したら震えは収まった。
義純は格子から手を放し、身体ごと当主に向き直った。
「俺に何か話でもあるんですか?
それとも―――どうして俺を殺そうとしたのか、教えてくれるんですか?」
記憶を取り戻しても知ることができなかった隠された事実。
当主は再会の感動も動揺の素振りすら見せず答える。
「確かに八年前、お前を殺そうとしたことは間違っていた」
「!」
過ちを認めてくれるのかと期待したのはあまりにも早計だった。
「出来たものなら生まれ落ちた瞬間に手を下しておくべきだった」
「どうしてだよ!? 何で俺は生きてちゃならないんだ!?」
「お前が吉乃だからだ」
「俺は―――っ」
口にするべきは否定か? それとも肯定か?
どちらも出せずに口ごもる。
「それがどうして理由になるんだよ!?」
「お前を殺しておかなかった結果がこれだ」
そういって当主は視線で篁を示して見せた。
「けっ、酷い言い様だな」
篁が吐き捨てるように言う。
「吉乃は篁の認めた伴侶。吉乃がこの世に再び現れれば、それを追うように篁もこうして現れる。
八年前にようやく、私はお前が吉乃だと確信した。お前は力を持たないというのに、尾憑き達は一族の他の者と違い、誰一人お前を蔑みはしなかったからだ。むしろ他の者が忌避していても積極的に関わろうとした。
だがその時には既に結弦は生まれていた。結弦が篁の本体であるとは、尾のない尾憑きであると判明した時点で疑ってはいた。混乱を避けるため一族のごく少数にしか打ち明けなかったが。
篁と吉乃。両方揃えばいつか篁が覚醒する。
だからせめて片方を消してしまいたかった。
篁本体の結弦を手に掛けるには、寝た子を起こす結果になるとも限らん。となればお前だった。
それでも黒狐がお前を殺そうとしたことを引鉄に篁が覚醒したのなら、やはり八年前に殺しておくべきだったのだろう。次善策ではあった」
「どうして篁をそこまで恐れる!? あんたたちの祖先だろうが!」
「妖怪は妖怪だ。昔ならいざ知らず、現代は日向の陰ですら魑魅魍魎は跋扈できん。存在すら認められん。恐れているのは篁ではなくそれを受け入れないこの時代だ。
お前の通う笹ヶ原学園が高群の分家によって創設されたことは知っているか? それは異能の力を持つ高群本家の子、特に尾憑きの子が何かあっても手を回せると安心して通える場をつくるためだ。それだけではない。別の分家には政財界に入り込ませ、容易には高群本家に手出しできないように固めた。もちろんこの土地の警察関係にも手を回してある。高群の血を隠すためにその高群の血の有能さを利用するとは皮肉な話だ。
そこまでしなければ異端の者は生きていけないこの時代に、どうして手に負えん火種を抱え込める」
「だからって―――!!」
理屈では理解しても感情が受け付けない。いや―――受け付けないのは吉乃か。
「で? それであんたは俺をどうしたいわけだ? こんなところに閉じ込めやがって」
篁が口を挟む。
当主は答えた。
「消えて頂きたい」
「そんな!!」
義純が非難の声を上げたのは当の篁よりも早かった。
当主の鋭い視線に射抜かれる。
「では篁。一つ聞くが、お前にその身体をもとの結弦に明け渡す意思はあるか?」
「はっ、やっと表に出てこれたってのに? あるわけないだろ、せっかく吉乃もいるってのになぁ」
「ならばやはり消えてもらうしかあるまい、その器ごとな」
「待てよ! 篁が何か悪さをしたわけでもないだろ!? それなのに消すなんて!」
当主が次に向けた視線は、多分に憐れみを含んでいるように思えた。
「お前は先程から篁の事ばかりを気に掛ける。身体のもとの持ち主である結弦のことはどうでもいいのか?
結弦にとってこのまま身体を篁に奪われ続けることと、身体ごと滅ぼされること、そこに何の違いがある? あるとすればそれは手を下す側の罪の意識だけだ」
「――――――――――――」
「見たところ、結弦と篁は別個の人格であるようだが、お前と吉乃は人格が融合しているようだな。いや、篁が表に出てきている分吉乃が勝っているか」
「俺は――――――っ!!」
「吉乃だろ。俺の吉乃だ」
「吉乃――――」
つられるようにその名を呟く。
「義純!!」
当主の一喝に肩がびくりと竦んだ。
「お前は今すぐこの場を立ち去れ。
これ以上篁に影響される前に立ち去るがいい」
そう命じられても身体はすぐに動かない。篁の前を離れようとしない。
「従わぬのなら強制的に従わせるまでだが? それよりは自分の足で歩きたかろう」
精神操作だ。
「吉乃に手を出すんじゃねぇ!」
篁が壁から背を離しふらつきながらも立ち上がった。
「尾を持たぬ抜け殻で何ができる。封印されたその間では立つのがやっとではないか」
「はっ、言ってくれるじゃねぇか。
軽く本気だしゃこれくらいできるんだよ!」
そう言って篁は後ろの壁に拳を打ち付け―――次の瞬間壁に大穴が空いた。
「待ってろよ吉乃」
そう言い残すとそこから外に抜け出し姿を消した。
炎を使わない、純粋な物理的力による突破。
その強引さに呆気にとられる。
「迂闊だった……!」
ぽっかりと大きな穴の開いた壁を睨み、当主は唸る。そしてすぐさま踵を返し、座敷牢を出て行こうとする。
「お前も来い」
呆然としていた状態で当主に腕を引っ張られ大きくよろける。
「どこへ行くんだよ」
「尾がなく力がないのは変わらん。ならば尾を取り返しに行くに決まっておろう。
ちょうど今、尾の封印が解かれている尾憑きがいるのだからな」
「桜羅」
その名を呟く。
「そうだ。
いいか義純。
尾がある桜羅でも尾がない篁を打倒することはできん。
力の強さの問題ではない。尾憑きの炎は自身を燃やすことはない。つまり他の尾憑きも燃やせぬし、それは本体に対しても同じだろう」
「なら篁だって―――」
「尾を取り返すのが目的であれば燃やす必要はない。精気を吸い取るのも篁の能力の一つだ。力の源である尾を取り返そうというのなら、燃やすよりも吸い取ることになる。尾憑きもその能力を持つものの、吸精でどちらが吸われる側に回るかは明らか。
尾憑き以外の術者の炎にその制約はないが、火力が足りるとも思えん。物理的に腕力で抑え込むとしてもこの様だ、結弦の身体能力は常識の範囲に収まらん」
「尾を取られたら―――桜羅はどうなるんだ?」
「力の源を取られて無事では済むまい」
「!」
遠回しに死ぬと告げた。
――――嫌だ!
咄嗟に湧き上がる感情。
「されば義純。
お前がどう動くかにかかっている。
篁はお前を害さない。篁に手を下せるとしたらお前だけだ」
「―――――――――――――」
篁を――――――この手で。
「お前が今まで生きてきた十七年間を捨て、吉乃であり篁の側に回るというのなら、私はお前に術をかけてでも従わせる。
それともお前が、お前の内に巣食う他人の感情を抑え込み、高群義純であり都竹義純であるというのなら、篁を止め結弦と桜羅を救ってみせろ。
問おう。お前の名は何だ?」
「俺は――――」
十七年間の記憶を捨てられるはずがない。消されていた九年間の記憶を取り戻したばかりなのだ。良い思い出ばかりの九年では決してなかったが、それでも取り戻した以上手放したくない。
だから―――これ以上他人に手を出されてなるものか!
「俺は都竹義純だ!」
義純は声を張り上げて断言した。
「篁を前にしても同じ答えが返せるか?」
当主が冷静に指摘する。
過去の吉乃が現在の義純を支配していいわけがないように、過去の篁が現在の結弦を支配していいわけがない。
それは義純としての本心ではあるが、篁を前にしていた間はそんな選択肢など浮かんでこなかった。目の前に篁がいたため吉乃の影響が強く出たせいだ。
同様に、結弦を救おうと考えると篁を消すことに直接繋がるため、思考が吉乃に引っ張られてブレーキがかかる。だから結弦の事が頭に浮かんでこなかったのだろう。
けれど。
「大丈夫だ。桜羅のおかげで突破口ができた」
桜羅は直接的には篁の存在に影響しない。だから先程吉乃の影響から完全に脱し切れていない時でも、桜羅の事には義純としての感情が反応できた。
―――桜羅。お前のおかげで自分を見失わずに済みそうだ。
篁を前にしても、桜羅を救うことを念頭に置けば吉乃の妨害が入らない。
「ならば行くぞ。必ず篁を止める」
当主は扉へと背を向ける。
「頼もしくなったな」
小さかったけれど、その声は確かに義純の耳に届いた。