第十九話 戻った記憶の行き場
父親が大した表情も浮かべずに義純を見下ろしていた。
普段近寄れば怒られる母屋の座敷に連れてこられたというのに、楽しくも何ともなかった。むしろいつも憐れむような顔しか見せなかった父親がそんな顔をしているから、かえって不安になってしまう。父親の他にも義純を囲むように数人の大人がいたが、誰も義純を見ようとはしなかった。歳の離れた兄に目を逸らされるのはいつもの事だったが、母親にさえ目を合わせてもらえない。
義純はもう一度父親を見上げた。
父親は徐に腕を上げ、掌を義純に向けた。
―――知っていた。
その動作は炎の出現点をイメージしやすくするための動作なのだと。
炎が出せなくても知っていた。
腕が痛くなるほどに散々試したのだから。
その掌が。父親の掌が。
義純を捉えていた。
―――死ぬのだ。
父親の手にかかって今日ここで今死ぬのだ。
涙さえ流れなかった。逃げるという選択肢さえ思いつかなかった。
だって父親が自分は生きていてはいけないと決めたのだから。
だったら受け入れるしかないではないか。
それ以外に、高群の力を何一つ受け継がなかった不吉で無力な子供に何ができる?
視界が青く染まる。
その瞬間。
どんっ
義純は横に突き飛ばされた。
訳が分からないまま畳の上に数度転がってから、文字通り焼ける痛みを押して起き上がる。
そして見た。見てしまった。見なければよかった!
足から腹まで黒く炭化した母親の姿を!
母親が義純を突き飛ばして庇ったのだ。
母親の伸ばされた手がゆっくりと義純の前で力を失い落ちていく。
死んだ。死んでしまった。死ぬのは自分のはずだったのに!
俄かに騒ぎ出す大人達。
義純はそれをどこか遠い世界の出来事のように見つめていた。
誰かに蹴られ踏みつけられる。それはひょっとしたら父親だったのかもしれないし、他の誰かだったかもしれない。
だがそんなことどうでもよかった。どうせ何も感じない。
―――現実なんて碌でもない。
「――――……、………っ、――――――」
義純は目を開けた。心臓の鼓動が早い。呼吸も上がっている。寝汗が気持ち悪い。最低な寝起きだった。
二度寝などする気にならず、義純は上体を起こす。掛けられていた布団も一緒にめくれ上がった。
布団に入った記憶などないが―――
周囲を見回せば、狭い六畳の和室だった。部屋の隅には和箪笥が一つ。殺風景な小さな部屋。
この部屋は―――
物はすっかりなくなっているが、襖の模様、障子の意匠、天井の木目、それらが引き出された記憶と合致する。
小さい頃の自分の―――高群義純の部屋だった。高群本家の敷地の片隅にある、小さな離れの一部屋。九歳まで過ごした部屋。
「――――ぅっ、――――ぅぅっ、」
嗚咽を殺して泣いていた。
起きた時から―――いや、寝ていた時から泣いていたのかもしれない。
「義純、起きたか? 入るぞ」
襖の向こうから躊躇いがちな恭輔の声が聞こえた。その兄の声を聞くと声を上げて泣きたくなったが、それを堪えてなんとか許可を口にする。
「…どうぞ」
恭輔は部屋に入ってくると、義純の枕元にゆっくりと胡坐を掻いて座った。
「全部思い出したんだな」
気遣う言葉に頷く。だが頷いたまま下を向いて、顔を上げることができなかった。
「悪かった、義純。俺はお前の記憶を封じて、結局最後までそれを返そうとしなかった。お前だっていつまでも子供な訳はないのに―――」
「違う!」
俯いたまま咄嗟に義純は否定した。
「子供だ―――どうしようもなく子供だ」
義純は恭輔のシャツの胸のあたりを掴む。
「ごめん、兄さん。ごめんなさい。ごめんなさい―――」
それしか言葉にならない。
記憶は全て思い出した。
父親に殺されかけ、庇った母親が亡くなったことも思い出した。
―――その後、自分がまるで死人のようだったことも。
感情を閉ざし、自ら動くことさえ放棄した。
食べ物や水すら口にしようとはしなかったのだ。意識があるのかないのかすら怪しい状態だっただろう。
だから恭輔は記憶を封印した。
弟を救う為に。弟に生きていて欲しかったから。
恭輔が真に消したかったのは高群の血に纏わる秘密などではない。それらは付随して消えたのであり、この数瞬の記憶こそ消し去りたかったのだ。
義純は恭輔の胸に頭を押し付け、声を上げて泣いていた。
記憶と共に解放された絶望感。
現実なんて碌でもないと、死んだところで構わないと、頭の中で自分自身が囁き続ける。
封印することで目を逸らせていた現実と受け止めきれなかった感情が目の前に叩きつけられる。
まるで記憶が封じられた瞬間に戻ったように、義純は子供のように泣き続ける。恭輔はそんな義純の背中を優しく叩き続けた。
「ごめんなさい―――」
「もういい、いいんだ。
お前は生きていていいし、俺がお前に生きていて欲しい」
佑磨は離れの縁側に腰掛け、思案顔で見るともなしに庭を眺めていた。
横に置かれているのは雑炊の載ったお盆。現在時刻は朝御飯は片づけられ昼御飯の準備には早い十時半すぎ。義純が目を覚ましたらしいと聞いて、昨日の昼から何も食べてないだろうからわざわざ気を利かせてやって持ってきたのだが。
とてもではないが部屋の中に入れる雰囲気ではなかった。義純の記憶が戻ったことは察しが付く。
「昔は俺の方がよっぽどか弟らしかったってのにな」
小さくぽつりと呟く。
義純にと持ってきた雑炊を一口掬って食べたら、冷めていて顔を顰めた。
先程から泣き声は聞こえない。
―――そろそろ入ってあえてこの冷めた雑炊を置いてこようか。
そんなことを考えていたら後ろで障子が開いた。振り向くと恭輔が部屋から出てくる。
置かれた雑炊を見て察したらしい。
「悪かったな、外で寒かっただろう。一声かけて置いといてくれればよかったのに」
「そうすればよかったですね。義純は?」
「寝たよ」
「また? 一体何度寝るつもりだよ」
昨日の夕方から数えれば三度目である。強制的に眠らされたものばかりだが。
「昨晩はずっと魘されてたからな。眠ったうちには入らないだろう。
――――となると、すまないことをしたな。せっかく雑炊を持ってきてくれたのに」
「いいですよ、どうせ冷めてるし」
「いや、ちょうど小腹が空いてたんだ。俺が代わりに貰うよ」
そう言って恭輔は佑磨の隣に腰かけた。
「なら温め直しますから」
佑磨はお盆を取ろうとしたが、それより先に恭輔がレンゲを手に取った。そして一口掬って口に運ぶ。
「これでも十分旨い」
佑磨は息を吐いて浮かせた腰を下ろした。
「桜羅達はどうだ?」
雑炊を食べながら恭輔は問う。
あの戦闘の後。
桜羅は幸いにも意識を失うほどではなかったがかなりの重傷だった。
義純は意識を失って倒れ、そのすぐ後に結弦も意識を失った。おそらく同じ身体に憑りついていた黒狐を消した反動を受けたのだろう。
そう―――ここしばらく見つからないはずだった。黒狐の幽霊は結弦に憑依していたのだから。黒狐が前面に出ない時は同じ狐の属性で気配が誤魔化されていたのだ。
けれどあの時の様子からすれば消されたと思っていいだろう、これで最近の連続放火の事件も解決だ。犯人はあの黒狐の幽霊なのだから。とり憑かれた結弦がやったともいえるが、それは罪に問われる前に揉み消すに違いない。
白化を封印する術式ができるのは本家だけ。恭輔も本家に状況説明の義務がある。そこで一台の車では乗り切らないので本家から迎えを呼んで、全員本家に移動したのだった。
四人も尾憑きが白化したうえ異端の義純まで八年ぶりに帰ってきたのだから、屋敷中大騒ぎになったのは言わずもがなだ。
「エンの封印が終わって今セイの封印してるとこです。サクは怪我してるから最後。今は部屋で大人しくしてます。あの分なら封印する頃にはだいぶ良くなってるでしょうね」
白化していた方が治癒力も上がる。かといって治るまで白化させてはおかないだろう。例えるなら獣に首輪をつけず野放しにするようなものだからだ。少なくとも本家の大人たちはそう考えている。
「結弦の様子は?」
「まだ意識を取り戻さないですね。座敷牢にも入れられたままです」
可哀そうではあるが、黒狐よりももっと厄介なものが表に出てきたのだ。
佑磨は少し躊躇った後、結局その疑問を口にした。
「結弦はやっぱり―――あの篁なんですか? それで義純は―――」
「吉乃か。だから義純はまったく高群の力を持たなかったわけだ。吉乃はただの人間だったそうだからな。
結弦にしてもそうだ。
結弦は受け継いだ力が弱いから尻尾が具現化しないというのなら、二人で一本の尾を継いだ双子も力が半分ずつなのだから具現化しない方が自然なんだ。
九本の尻尾に白化できる十人。尾を持たない者は尾をすべて失った篁本体。そう考えた方がずっと筋が通る―――本体が現れるなんて可能性を上げることができればな」
「義純は―――どっちでした?」
「義純のままだった」
恭輔は佑磨の聞きたいことを察し、聞きたい答えを返してくれた。
高群の始祖ともいえる九尾の狐、篁。
そしてその篁と結ばれ九人の子供を儲けたとされる女、吉乃。その子供は一本ずつ尾を継いでいて、それが高群一族のはじまりと言われている。
あの時義純は確かに結弦に吉乃と呼ばれ、肯定するように篁の名を呼び返していた。
「それでも吉乃の影響は受けているのだろう。尾憑き達の性別の暗示が効かなかったのはそれ故だろうな。伴侶の本質は間違えない、といったところか。
一応、次に起きた時にちゃんとどういうことか聞いてみる必要があるだろうな」
そう言われて佑磨は大人たちの説教―――もっと黒狐を早く退治できていればどうこう精進が足りない云々―――と一緒に忘れるところだった言伝を思い出す。
「当主が、義純が起きたら部屋に来るようにだそうです」
雑炊を食べる手が止まる。レンゲはゆっくりと皿に戻された。
「そうか―――」
恭輔は微妙な顔をした。
そして恭輔は再びレンゲを口に運ぶと、残りの雑炊を一気にかきこんだ。
「ごちそうさま。食器片づけてもらっていいか?」
「そりゃいいですけど―――」
恭輔は立ち上がる。
どこへ行くかは想像がついた。当主のところだ。
「どうして―――そこまで義純に甘いんですか」
口をついて出た恨み言のような問いかけ。
縁側を歩きかけた恭輔が立ち止った。
「弟を頼むと―――そう言われた。最期に母さんに。
俺にとっては術の師でしかなかった母親が、はじめて俺に母の顔を見せた。
―――それだけなんだ、馬鹿みたいなことにな」
―――本当に馬鹿ですよ。
恭輔達の母親は、力を持たない普通の子供でしかない義純だけを、普通の母親のように普通の母子らしく可愛がっていた。力を持った恭輔には師と弟子としてしか接しなかったというのに。
ならばその最期の時に恭輔に見せた顔さえ―――
「分かってはいたんだ」
何をとは言わず、恭輔は一言付け足した。
そして佑磨の方を向いて爽やかに笑いかける。
「お前が俺を兄のように慕って兄でいさせてくれたから、俺はあいつの兄でいることができるんだろうな」
「!」
虚を突かれた佑磨をその場に、恭輔は縁側を歩いて去って行く。
「……なんだよ恭兄―――」
誰もいないというのに佑磨はにやける顔を腕で隠した。