第一話 進級初日に常識は崩れる
聞こえる。
―――ヨシ――、――ヨ シ ―――ノ――
名を呼ぶ声が聞こえる。
誰の声だ?
誰が呼んでいる?
いや――これは呼ばれているのだろうか?
呼ばれているのは確かに自分のはずなのに、どうにも自分が呼ばれているという実感が薄かった。
――――ヨ、シ――、――
なおも声は名を呼び続ける。
真っ暗な闇の中、ただその声だけが響く。寂しそうで辛そうな響き。
そうか。
これは相手を呼ぶためにその名を口にしているのではない。呼んでも来ないと分かっている相手への思いを名を呼ぶことで吐き出すため――
―――応えてやらなければ。
この哀しい呼び声を止めるために、応えてやらなければ。
◆◆◆◆◆
ガチャン
意識が浮上する。
そこは何も見えない真っ暗闇などではなく、カーテンが閉められて薄暗い部屋の中だった。もちろん見覚えのない部屋というわけではなく、机も棚もクローゼットも全部見覚えのある自分の部屋である。
足音や物音が聞こえる。
どうやら兄が帰ってきたようだ。おそらく兄が玄関のドアを開け閉めした音で目が覚めたのだろう。
枕元の時計を見れば6時5分。
朝帰りとは、昨晩の仕事は随分大変だったようである。
目覚ましが鳴る十分前。この時間で二度寝することもない。
ベッドから伸びをしながら起き上った。
「あーそうか」
開けっ放しのクローゼットにかかった制服を見てようやく意識する。
今日は進級一日目なのだ。めでたく高校三年生である。
目が覚める前、夢を見ていた気がするが――覚えていなければ験が良い悪いもないだろう。
義純はそれ以上気に掛けることなくベッドから立ち上がった。
義純がリビングに行くと、やはりスーツ姿のままの兄――恭輔がソファーにだらしなく寝ていた。九歳上の兄は、身内の贔屓目を差し引いても長身ですっきりとした端正な顔立ちの美形なのだが、その容姿もこの不格好さでは幻滅である。
やれやれと溜め息が出るが、それは見下げてのものではない。意味的にはお勤めご苦労様でした。これも親愛の情である。多分。
「おはよう、兄さん」
「ん…。あぁ、あー」
さすがに朝帰りで疲れているようで、返事なのか寝言なのかよくわからない声を返す。
「お帰りかお疲れ様のがよかった?」
「ふぁあぁ。どうせならケチらないで全部言ってくれ」
「わかったから寝るならスーツ脱いで。皺になる」
「面倒」
「スーツにアイロンかける手間が増える俺の方が面倒だ」
「頑張れ」
「兄さん」
「………………」
弟に押し負けた兄は、溜め息と共にようやくのっそりとソファーから起き上がった。
家事能力が悲しいまでに無い恭輔は、家事を盾にとられると弱いのである。
「あー、義純。おはよう」
「おはよう。お帰り、朝まで仕事お疲れ」
改めて挨拶。恭輔が不規則な仕事であるため、当たり前ともいえる朝の挨拶といえど毎日交わせるわけではない。なので挨拶できるときはきちんとする、それがこの家の―――というか二人の間のルールだった。
義純と恭輔、兄弟二人暮らしなのである。
両親は既に他界。よって兄が稼ぎ弟が家事を担うことで生活していた。
そしてこんな遅く――というか早くと言うべきか――に帰ってきて、恭輔の仕事は一体何かと言えば、それは探偵である。
と言うと興信所所員だと本人にすぐさま訂正されるのだが。
本人曰く、漫画だか小説だかのいわゆる探偵は存在しないらしい。
なら具体的な仕事内容は何なのかとは聞いても無駄である。守秘義務というやつだ。大方浮気調査で張り込みでもしているのだろうと義純は推測している。
「悪い、起こしたか?」
スーツを脱ぎながら恭輔は問う。
―――ここで脱げと言ったつもりはないのだが、いつもの事であるし、どうせ男二人所帯である。
「いや、丁度起きるとこだった。今日から新学期なんだ」
「そういえばそうだったな。――お前ももう高三か。早いものだ」
しみじみと口にする恭輔。
―――オヤジ臭い反応である。
とは思ったが、義純が口にしたのは別の表現だった。
「…そういうセリフは口にすると老け込むぞ」
「おっと、それは気を付けないとな」
物心ついた時から恭輔と二人で暮らしてきた義純にしてみれば、恭輔は兄であると同時に親代わりでもあるのだ。
よって恭輔に対して『オヤジ』というのがあまりシャレにならないのである。空気が微妙になる。
「すぐに寝る? 朝飯これから作るけどどうする?」
「昨日は例の如くの呼び出しでお前の夕飯食べ損ねたんだ、もちろん出来立てを頂くよ」
「それなら冷蔵庫に残ってるけど」
軽く冗談を口にする。
「おいおい、意地の悪いこと言うなよ。それは昼飯にする。お前は今日からもう弁当なんだろ?」
「助かる。今作るから、その間にシャワーでも浴びてて」
「そうさせてもらうよ」
「すぐにできるから風呂場で寝るなよな?」
「もちろん」
あまり信用できない返事を返すと、恭輔はリビングから出て行った。
―――まぁあの様子なら本当に寝てしまうこともないだろう。経験則だ。
こんな兄が仕事中ではどうなっているのか弟として気にならなくはないが、仕事の性質上聞くことはできない。
義純はキッチンに移動すると朝食と弁当作りに取り掛かった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
恭輔に見送られて義純はマンションを出る。
徒歩で駅まで、そこから電車で都心部を抜ける。この地方では大きな市とはいえそこは地方都市。すぐに高い建物は見えなくなって代わりに低い住宅が多く目につくようになる。
学校が近くなるほど同じ制服、グレイのブレザー姿が増えていく。
その中に混ざる見るからに真新しい制服や鞄。彼らの新しい学校生活への期待や多少の不安に満ちた顔がなんとも微笑ましい。
―――そんな感慨を抱く自分も、いつの間にか年を取ったものだ。
それもそのはず、自分が入学したのは五年も前になるのだから。
義純の通う笹ヶ原学園は中高一貫校。新入生は基本的に中学生のみである。
小学生の頃のことなど高三にもなれば記憶も朧な遠い昔の話だ。
「都竹」
学校の最寄駅を出たところで後ろから声を掛けられた。
知った声。振り向けば、やはりそこにいたのは京極昭。義純の中学時代からの友人である。クラスも中一から高二までずっと同じという腐れ縁ぶりである。
「おはよ、京極。久しぶり」
「お早う。いよいよ笹ヶ原最後の一年だな。悔いなく過ごしたいものだ」
言葉選びといい、浮かれるどころか気を引き締めにかかるところといい、堅物の彼らしい。
「春休みは有意義に過ごせたか?」
「それなりにってところか。休みっていったところでたっぷり課題は出されるからな。まぁ塾の春期講習とか通ってる奴等に比べれば休みらしく休めたよ」
「お前はその分家事全般請け負っているだろうが」
「勉強漬けよりはいいさ」
高校生で既に両親が他界し家事全部やってますと言えば、腫物を触るように同情されるものだ。腹立たしさを感じるほど過剰な同情をされることもある。京極は友人として気遣いはしてくれるものの、そういった反応を見せないからありがたい。
「進学校生徒の科白としては少々異を唱えたくもなるな」
「だからそれ相応の成績ってわけだ」
「世間一般論でいえば、うちの授業についていければ十分優秀だろう」
「ついていけてればな」
その一言で成績が推し量れようというものだ。
笹ヶ原学園は地方―――地域や地区ではなく地方―――で中学受験最難関のハイレベルな進学校なのである。中高一貫校の利点を生かして中学時で既に高校教育課程の内容を勉強するほどだ。
「始業式が月曜だと、いきなり五日間連続で学校だから休み明けにはキツイな」
「休みだからと怠けている者がそうなるんだ」
「…お前は休みでもだらけてるところが想像できないわ」
二人で適当に春休みの話とかをしながら通い慣れた通学路を歩く。最寄駅からさらに十五分ほどの街外れだ。
新入生ほどではないにしろ、他の生徒達も進級初日となれば浮かれている。校門前まで来れば周りは笹ヶ原の生徒のみ。聞こえてくる主な会話はクラス替えや担任の話題だ。ちらほら進路の話題も交じっているのは耳に痛い。
―――――????
校門を抜けたちょうどその時。
何か。違和感を感じた気がした。
何か、あれ、と思ったような気がしたのだ。
義純は思わず立ち止まる。
だが何に違和感を感じたというのだろう?
―――視覚、聴覚、触覚。あるいは嗅覚、まさか味覚。何に感じた?
とりあえず周囲を見回してみても、何か不審なものがあるわけでも不審な人物がいるわけでもない。
「どうかしたのか?」
怪訝な顔で京極が問う。
つまり京極は何も感じていないのだ。
周囲の生徒も何の反応も見せていない。新入生が校門前の写真撮影で騒いでいる以外は皆素通りだ。
―――つまりは自分一人だけ―――??
ならば―――気のせい、だろう。
そう結論付けた。こんな校門の前で立ち止まっている自分の方が不審である。
「悪い、なんでもない」
「そうか。ならいい」
義純と京極は再び歩き出し、校舎の方に向かう。
昇降口には案の定人だかりができていた。
クラス分けと担任が張り出されているのだ。
都竹義純。
人込みの隙間から自分の名前を探す。
一組から順に探して――二――三――四――五――六――見つけた。
三年六組らしい。
ついでに名簿の前後にも目を通す。進級最初の席順は名簿順と相場が決まっているからだ。
後ろの名前は知らなかったが、前の名前には聞き覚えがあった。
高群桜羅。
同じクラスになったこともなく顔見知りというわけではない。向こうが有名なのである。
担任は数学担当の先生で、授業の様子を思い出す限り、可もなく不可もなくと言ったところか。
そこまで確認したところで京極が声をかけてきた。
「俺は五組だった、お前の隣だな。六年連続でなくて残念だ」
「俺もだよ。教科書忘れた時には頼むわ」
「互いにな。まぁ体育は合同になるんだ、縁がないわけじゃない」
―――互いが互いに『こいつは教科書忘れないだろ』と思ってるんだろうなぁ。
義純は前のクラスの数少ない友人もチェックしたが、残念ながら皆別のクラスだった。今までずっと同じクラスだった京極とも別れ、今年一年に一抹の不安を感じなくもないが、どうせ進学校、皆受験一色になることだろう。
スニーカーから内履き用のシューズに履き替え教室に向かう。五組の教室前に着いたところで、
「クラスは違うけど、今年もよろしくな、京極」
「こちらこそ、都竹。
俺がいなくてもクラスの連中とはうまくやれよ」
「何言ってるんだよ」
軽口を交わして京極と別れる。
そして義純は隣の教室、六組の前で立ち止まる。
教室の扉は開け放たれたまま。はじめて扉を開けるあの独特の緊張感がなくて助かる。
義純は軽く息を吐くと教室に足を踏み入れた。
クラスでは既にグループがいくつかできて話に花を咲かせている。
六年目ともなれば委員会や部活もあるし、普通に学校生活を送っていればクラス替えをしたところで顔見知りの方が多いのだろう。―――いや、それは委員会や部活をやる余裕のない、『普通』ではない境遇の自分のただの妬みだろうか。それとも自分に社交性―――というか社交性に対する積極性―――がないことの言い訳か。
どちらにしろ今のこの環境に本心で不満があるわけではない。
義純は黒板に大きく書かれた座席表を見て、自分の席に移動する。やはり名簿順であるようだ。
「?」
そして席の手前で、おかしなことに気づいた。
あの校門の時の違和感とは違う。はっきりと原因が分かるからだ。原因が目の前にあるのだから。
―――そう、前に。
義純の席だと指定された前の席に。
前の席は高群桜羅。クラス分けの表と黒板の座席表からもそれは確かだ。
そして今その席に、女物の制服を着た生徒が座っていた。どこの会話にも加わらず、窓の外をぼんやりと眺めている。
―――綺麗な顔だな―――
喧騒の中、頬杖をついて物憂げに視線を外に逸らす。微かに頭を動かしたようで、さらりと黒髪が肩から落ちた。それだけで絵になる。その周囲だけ空間が切り取られたかのようだった。
……………いやいやいやいやいや。そんなことより。
義純はもう一度座席表を確認し、注意深く席を数えた。
―――なんてことだ。間違いない。
義純の席は間違いなくその生徒の後ろだった。
そう、つまりはその生徒が高群桜羅ということになるのだが―――
いやそもそも顔も見かけたことのある高群桜羅そのままなのだが、だからこそ!
高群桜羅。
人付き合いも少なく帰宅部で、学校の情報に疎い義純が何故その名を記憶していたかと言えば。
容姿端麗、大層な家柄、深窓の麗人。
それよりも強いインパクトを与えるのがその名前。「羅」という人名には仰々しく使いづらい漢字を使っているのが珍しいという話ではない。
さくら。
この読みで男の名前なのである。
そう、高群桜羅は男なのだ。女にしか見えなくても男なのだ。
さくらと呼ばれるのを聞けば、誰もが皆名字の「佐倉」ではなく名の「桜」と変換するであろうほど、女にしか見えなくても男なのだ。
少なくとも義純が見かけたときは男物の制服だった。噂でも男だったはずだ。
それが何故スカートに黒のストッキング! つまりは女装しているのだ!
「何?」
つい凝視してしまっていたのだろう、その生徒(高群?)は迷惑そうに声を上げた。
「あ、いや、えっと…」
一体なんと返せと言うのだろう。
似合ってるね。―――却下。率直過ぎる感想だがこの場合は褒め言葉ではない気がする。
なんで女装してるの? ―――ほぼ初対面の相手にこれもあまりに率直過ぎか。
いい天気だね。―――返答に困っているのがあからさますぎる!
高群の方も恥ずかしがるとか見せびらかして自分から感想聞くとかしてくれればまだ返答のしようがあるものの、あまりに平然としていて困る。
ここは他のクラスメイトに対応してもらいたいところだが、進級初日にクラスの男子が女装しているという事件に対し、別段騒ぎ立ても盛り上がっている様子もなかった。
―――だって本当、女の子に見えるもんなぁ。
しかも高群含め誰に対しても失礼だがそこらの女子より綺麗だ。中身は男だが。
「おはよう、高群」
とりあえず間をもたせるために義純は挨拶した。
『さん』とつけるべきだったかと反省しているあたり、まだ外見に騙されている。
いつまでも困惑したままの義純に対してだろう、桜羅がくすりと笑った。
その犯罪的に魅力的な仕草!
―――だからなんでこれで男なんだ!
「おはよう、都竹君。同じクラスになるなんてね」
意外というか、桜羅は普通に普通の会話を振ってきた。
けれどその言葉に引っかかる。
「……その口ぶりだと俺の事知ってたってことになるんだけど。
悪い、俺って高群と面識あったっけ?」
「何言ってるの、都竹君だって私の事知ってるでしょ」
「そりゃ高群は有名だからな。
で、何でそんな恰好してんの?」
―――ついに言ったー! しかもさりげなく成功!
表面的には話しつつも内心で機を窺った甲斐があったものだ。
そしてそれに対する反応は。
「どこかおかしい? スカートの裾でも捲れてる?」
不機嫌そうに聞き返す高群。
―――まぁ女の子が自分の格好に文句付けられたくはないよな…。高群ってどこか気が強そうだし。
…………………。
いや男だってわかってはいるが!
それでも聞き方が悪かった。とにかくここはどうにかして誤魔化さなければと返答を練っていると。
「おっはよー。高群さん、私前の席なの、よろしくね! 私の席、前と左右が男に囲まれちゃって、高群さんだけが女なんだよー」
横から声が割り込んできた。
ノリよく話し掛けてきた女子生徒。人を引きつけるタイプなのだろう、彼女の言葉を飲み込む間もなく次々と会話にクラスメイトが加わってくる。
「残念、俺高群さんの隣がよかったのに」
「やめとけ、高群さんみたいな可憐な人が横にいたんじゃ授業に身が入らないって」
「…それはお前、その席俺に譲ってくれるってことだな?」
「だが断る」
隣の席に座りたいと口々に盛り上がるのは主に男子。
女子は女子で同性のノリで桜羅に話し掛ける。
―――まさかたった一人をハめるために、クラス全員が示し合わせたとでも?
だがそれなら、何が何だか理解できない義純の間抜け面を陰でこっそり笑っている者がいてもいいはずだ。上手く演技ができず不自然な態度をとっている者がいなければおかしい。
けれどそんなクラスメイトは見当たらない。
皆、本気で桜羅が女だと思っているのだ。
駆け抜ける焦燥。
それは恐怖に近い。
義純はその会話の輪をかき分けるようにして抜け出し、半ば走って教室を出て隣の五組に向かった。
「京極いるか!?」
「どうした、そんなに慌てて」
談笑していた輪から抜けて、京極が廊下まで出てくる。
上がりそうになる声のトーンを抑え、義純は率直に訊ねた。
「高群桜羅は男だよな?」
「いきなり何を言っている?」
「いいから答えてくれ!」
怪訝な顔をしながらも京極は答えた。
「女だろ」
……………………………………。
―――自分の記憶と友人、どちらを疑えばいいのだろう。
義純はその場に崩れ落ちそうになるのを扉を掴んで何とかこらえる。
休み前まで男だったはずの同級生が、休みが明けてみれば女になっていた。
しかも周囲の生徒は皆当たり前のように女だと認識している。
まるで元からその同級生は女だったかのように。
始業を告げるチャイムが遠く鳴り響く。
―――まるで狐につままれたようだった。
初投稿です。よろしくお願いします。
書き溜めてあるのでこまめに更新できる予定です。




