終章
アティーヤの旅立ちの準備はあっという間に終わった。
準備と言っても、僅かに残った財産や宿屋の女将が餞別に用意してくれた干し肉などの保存食を纏めるだけだ。
「ありがとうございます、いろいろとお世話になりました」
宿屋の入り口の前で、アティーヤは最後の別れを宿屋の主と女将に言った。
時刻はもう昼前。宿を出発するには遅い時間なので、宿屋の中は静かだ。
そこにライルがやって来た。
「あの、アティーヤさん……」
彼女は目を潤ませ、表情を歪ませている。
言葉を聞くまでもない。ライルの伝えたいこと、思っていることは痛いほど分かった。
「君も分かっているだろう。私は別に君のために財産を失ったわけじゃない」
「うん」
「自分が交わした約束のため。自ら選んだことだ」
ライルもアティーヤの意思は分かっているのだろう。それでも納得できないというように、俯いていた。
「アティーヤさんはこれからどこに行かれるおつもりですが?」
心配そうに女将は聞いた。
「コロボ島に行こうと思います。『宝石の島』と呼ばれるあそこなら、心機一転新しくやり直すにはちょうどよいでしょう。バドル・アル・ドュジャーについても、分かることがあるかもしれない。ライル、君はどうする?」
「え?」
不意を突かれたように、ライルは声を漏らす。
「確かに君を家まで送り届けると約束した気がするが……よく考えればそれは、私が勝手にした約束だ。君が嫌というなら、それを強いるつもりはない」
「それは……でも、私にはもう、血のつながった家族は……」
「では、この街で新しい人生を始めるか? 働く気があるなら勤め口くらいは探そ……」
「あ、あの!」
アティーヤの声を遮って、ライルは叫んだ。
「わたしも、連れて行ってください!」
震える声を、精一杯張り上げて。
「わたし、何か力があるわけじゃないし、アティーヤさんの商売のお手伝いとかもあんまり出来ないと思うし、別に容姿が綺麗とかでもないけど――語ることなら出来ます! あ、バドル・アル・ドュジャーのお話は一つしか知らないし、あんまり多くの話を語れるわけじゃないけど、旅をしたらいろんなお話に出会えるはずだし……とにかく、何でもします! だから、だから……」
必死になっているライルのほうは見ずに、アティーヤは問う。
「……楽な旅じゃないぞ。金が無い、というのもあるが……旅をするのは大変なことだ。病に盗賊、戦争――危険を挙げればきりがない。それでも、月の魔石――いや、月の魔石の物語に近づきたいと思うか?」
「はい」
ライルの声に迷いはない。
「それが死んだ姉の遺志だから?」
「……姉様の、そしてわたしの意志です。姉様だけじゃない。これはもうわたしの願いなんです」
アティーヤは腕を組んで考えた。ライルは唇を噛みしめて、彼の返答を待つ。
「……姉の為、とだけ言ったらついて来るなというところだったよ。君のお姉さんは、絶対に君が危険な道を行くこと事を望まないだろうからな。だが、自分の願いなら仕方ない」
ライルの顔に笑顔の花が咲いた。
「ありがとうございます!」
将来を諦めていた少女はもういない。ライルは未来への希望を掴んでいた。
そんな彼女に、宿屋の女将は頭からすっぽりと被れる厚手の上着を着せた。
「これは……」
「これがあなたを、昼の非情な太陽や風から、また夜の凍える寒さから守ってくれますように」
彼女は分かっていたのだろう。ライルがアティーヤと共に行くことを選ぶことを。
感極まったライルの目尻には、涙が浮かんでいた。
「……この恩は必ず返します」
「また元気な顔を見せてくれたら、それが一番の恩返しですよ」
女将は慈愛の篭った目でそう言って、優しくライルを抱擁した。
宿屋の人々との別れを終え、二人は外へと一歩を踏み出した。
そこで待っていたのはフェルカンドの人々だった。年齢、性別も様々である人達の目が二人に集まる。
何事か、と二人が驚いていると――誰からともなく拍手が起こり、歓声が沸きあがる。
「至上の物語り師に神のご加護を!」
「勇気ある青年に、永久の栄光を!」
ライルとアティーヤは顔を見合わせた。
「……これは?」
「お二人の話はあっという間にこの街に広がったのです。最高と物語り師を助けた勇敢な青年の英雄譚は――」
人ごみを掻き分けて現れたのはフィトナだった。彼女が連れていたのは、背中に何か荷物を積んでいる一頭のラクダ。
「これはムアイカド様からの贈り物です」
そう彼女は恭しく頭を下げる。
アティーヤはラクダの口にかけられた、翠緑玉の首飾りに気が付いた。間違いなく、昨夜アティーヤが献上したものである・
ということは、ラクダの背中に乗せられている荷物は――
「これは……」
「どうかお受け取りください」
そしてフィトナはアティーヤの耳元で囁く。
「……あまりムアイカド様の評判が下がると、私にとっても不都合なのです」
まったく、食えない人だ、とアティーヤは思う。自分は結局、この美しい女奴隷の手中で踊っていただけではないか。
「あなたには礼を言うべきなのでしょうね」
「――私とあなた、進む道は違えども同じものを目指して歩いているようです。次に会うときは敵かもしれませんし、味方かもしれない。それをお忘れなく」
「あなたの敵にはなりたくないものです」
それは心の底からの言葉であった。
「それは私も同じ気持ち。――どうかお気をつけください。満月の光は明るすぎて、周りの星の瞬きなど簡単にかき消されてしまうのです」
「肝に銘じておきます」
アティーヤは、ラクダの口にかけられた翠緑玉の首飾りを取った。
そしてそれを、自分を賞賛する声に赤面して俯いているライルの首にかける。
「それは私から君の物語への、ささやかな報酬だ」
ライルは嬉しそうにはにかんだ。
乾いた風が吹き抜ける砂漠。アティーヤはラクダの背中の上で揺られながら、風を頬で感じていた。
そう言えば、ライルと出会ったのも砂漠の真ん中だった。その時には、フェルカンドで起こった出来事のことなど想像しなかった。自分の孤独な旅に同行者が出来ることも。
――それもこれも、バドル・アル・ドュジャーの存在のせいか――
この魔石がなければ、ライルが物語を語ることもなく、ムアイカドやフィトナとは出会わなかっただろう。いや、そもそもライルと出会わなかったかもしれない。
それはファジュルとイマルにも言えることかもしれない。月の輝石がなければ、ファジュルは生まれなかっただろう。
かつてアティーヤは、バドル・アル・ドュジャーを呪いの宝石のように思っていた。しかし、今ではその認識も変わっている。
……時に人の運命を狂わせ、時に人を導く。そんな存在なんだろう。
――愚者に災いを、賢者に恵みを。
……自分は、少しは賢くなれたのだろうか。家族を失ったあの日より。
ふと思い立ち、後ろで同じようにラクダに揺られる少女に尋ねる。
「そういえば、ファジュルとイマルはどうなったんだ?」
「え?」
ライルは、目を瞬かせた。
「君の物語はファジュルがイマルを助けたところで終わっていたが」
「それは――」
言葉に迷いながら、彼女は告げた。
「実は私も知らないんです」
「そんな……」
申し訳なさそうに、彼女は言う。
「姉はそこまで語ってくれなくて――」
「だがこれはもう、ライルが語った、ライルの物語なんじゃないか? 聞かせてくれ、君の物語を」
アティーヤの言葉に、ライルは一瞬きょとんとした表情を浮かべた。
そして少し考えて、ゆっくり息を吸い込み――語る。
「――二人は手を取りあい、神殿をあとにしました」
ライルの目はどこか遠く――まだ見ぬ未来を見ていた。
小さな手は、胸元で輝く翠緑石を優しく握っている。
「それは二人が己の運命と向き合う旅の始まり。彼らの目の前には未知の世界がどこまでも広がっています。二人の旅は果てしなく続くのでした。いつまでも、いつまでも――」
風が砂埃を巻き上げる。
霞む視界の遥か彼方に、白髪の美しい乙女と若い青年の影が見えた気がした。