第四夜 物語り師と物語の終わり
アティーヤが目を覚ましたとき、辺りはまだ暗闇に包まれていた。
見ると、焚き木は既に燃え尽き、白い煙だけが上がっている。老人はまだ眠りについているようだ。
ふと、顔を上げると、そこには己の目を疑う光景が広がっていた。
「なんで……神殿が……」
崩壊した神殿。それがかつてあったであろう形のまま、佇んでいた。柱はもちろん、壁の装飾、周囲に置かれた像も何一つ崩れることなくそこにある。
寝ぼけているのか、夢をみているのか――そう思いながら、アティーヤは立ち上がる。
中はどうなっているのか、まさか人食い一族がいるとでもいうのか――そんな疑問に駆られ、彼は神殿の入り口を目指した。だが、彼は神殿内部まで至る途中である人物と出会う。
彼女は入り口の門の上に腰掛けていた。白い髪を夜風になびかせた美しい乙女――彼女に会うのは初めてだったが、彼女の名をアティーヤは知っている。
――イマル……!
イマルはこちらに気が付き、体重を感じさせない動作でアティーヤの前に降り立った。彼女はアティーヤを見て、にこりと笑う。アティーヤは、夢が現実か疑うことも忘れてどきりとしながら、苦し紛れに聞いた。
「あなたはあんな所で何をしているのですか……?」
「空を見ているのです。あの人も同じ星空にいる……そう思うと、いつまでも空を見上げていたくなるのです」
その表情はまるで恋を初めて知った乙女のようであった。
「あなたのような人ならざる者でも、人間と同じように人を愛することが出来るのですか?」
「分かりません。今はまだ。だから、ただここで待っているのです」
そういい残すと、イマルは神殿の中に消えていった。
「ちょっと、待ってくれ!」
アティーヤにはまだ聞きたいことがあった。
バドル・アル・ドュジャーのこと。ファジュルのこと。――そして、今いるこの世界は、夢の世界なのかということ。
アティーヤは彼女を追って、神殿へと続く闇の中の中に飛び込んだ。暗い通路を手探りで進むと、ライルの物語と同じように広い部屋に出た。月の明かりが差し込んでいるため、大きなサソリの像があるのも分かった。
そこにイマルはいなかった。だが代わりに、一人の少女がいた。
細い手足の小柄な体、黒い髪と瞳――
物語り師の少女がそこにいた。
「――聞こえますか?」
決して明るくない神殿の中で、少女が微笑んでいることだけははっきり分かった。
「聞こえましたか? わたしの物語が。あなたの胸に届いたなら、それだけでわたしは幸せなんです。たとえこの命が尽き果てようとも」
最後の言葉に、アティーヤは思わず目を見開いた。
「ライル!」
この少女が本当に死んでしまうんではないか、そんな激しい不安に駆られ、彼女に近づき手を伸ばそうとした。
彼女に触れる――その瞬間だった。
彼は目を覚ました。
慌てて周りを見渡す。神殿はやはり崩れており、瓦礫だけが散らばっていた。東の空は蜜の色に染まっている。
「やはり夢だったのか……」
そのときアティーヤの目は、瓦礫の上に立つ、一人の女の姿を捉えた。
こんなところに自分以外の人間が、それも女がいるはずない、また夢を見ているのか――それを確かめるため、そちらに向かった。
まさか女はイマルか? ライルか? ――いや、違う。
女はライルほど小柄でなく、イマルのように白髪ではなかった。そこにいたのは、予想外の人物。
「フィトナ……あなたがなぜここに」
ライルを迎えにきた、ムアイカドの美しい女奴隷だった。夜明けの光を受けて佇む彼女は、まだ夢を見ているのではないかと思うほど、幻想的で美しい。アティーヤは思わず目を擦った。
彼女は瓦礫の上からこちらを見下ろしながら言った。
「己の目で確かめたかったのです。月の魔石は果たしてここにあるのか……。彼女の物語が終わるまで待とうかと思いましたが、あなたに先を越されるわけにもいきませんからね。しかし、杞憂だったようです。あなたを見て――いえ、ここに瞬間それが分かりました」
そして、フィトナは朽ち果てた神殿を見渡した。辺りは静寂に包まれ、命の気配はない。――きっと彼女も昨日アティーヤが思ったことと、同じ思いでいるのだろう。ここにバドル・アル・ドュジャーはない、と。
「あなたは何者ですか」
「あなたと同じ――大きな月の周りで輝く幾千幾万個の星屑の一つです」
「それはつまり……」
フィトナはアティーヤの言葉を遮った。
「アティーヤ・ニッサファー。一つあなたに伝えましょう……ファジュルは決断しました。己のさだめと向かいあいました。あなたも決断すべきです」
これ以上語ることはない、と言いたげにフィトナはアティーヤに背を向ける。
「ちょっと待っ……」
アティーヤは彼女を追おうとした。しかし、最初の一歩を踏み外し、彼は無様にも転んでしまった。
次に顔を上げたとき、フィトナの姿は無かった。慌てて瓦礫を上り周りを見渡すと、馬に跨りフェルカンドへと帰る彼女の姿を見つけた。どうやらここまで一人で来た様子だ。
「本当に、何者なんだ……」
ムアイカドと対談したときの様子を見る限り、フィトナはライルの処刑の件に一枚も二枚も噛んでいるようだ。そして、バドル・アル・ドュジャーを追っている。アティーヤには彼女の目的が分からなかった。
そして彼女の言葉を思い出す。
「あなたも決断すべきです」
フィトナに言われずとも、そんなことは分かっている。
――聞こえますか?
夢の中のライルの声が、頭の中に響いた。
「ああ、聞こえている。この胸に確かに届いている」
既に彼の心は決まっていた。
ライルが軟禁されている部屋にも朝が訪れる。時はゆっくりと流れた。ライルは体全体から力が抜けていくような感覚に襲われていた。ライルは少しだけが水を飲んだだけで他には何も口にしていなかったが、そのせいだけでは無いだろう。
絶望感も、悲しみもあまり無かった。希望も期待も無い。ただ、多くの記憶が蘇っては消えた。
幼い日、姉が聞かせてくれた物語、死んでしまった両親、幸せではなかった新しい家族――
生まれてから今日までの記憶の欠片達の中で、一つ、強く光り輝くものがあった。
それは、たった数日前に出会ったばかりの青年の記憶。
何故だろう、とライルは思う。彼と過ごした時間はそう長くはないのだ。それなのにどうして――
「どうして、もう一度会いたいだなんて思うんだろう」
彼女はその問いに対する答えを知らない。
考えているうちに時間は流れた。日が傾き始めた頃にライルのもとにやって来たのは、昨夜と同じ人物だった。
「こんにちは。気分はいかがでしょうか。見たところ、快調とはいかないようですが」
フィトナの言葉に、ライルは返答しなかった。美しい女奴隷は、それに大して気にする様子もなく語りかける。
「今朝、例の神殿で、あの青年に出会いました」
瞬間、ライルの血相が変わった。
「……どうして……、アティーヤさんも……それにあなたも」
彼女の声は震えていた。
「私も彼も求めるものは一つ。あなたにも分かるでしょう……? もっとも、結局見つけることは出来なかったのですが」
「あなたは一体何を考えてるんですか。わたしやアティーヤさんをどうしたいんですか」
彼女は何も言わずに微笑む。ライルは急に、今まで感じていなかった怒りが湧いてきた。それはアティーヤの存在故かもしれない。激しい声で言った。
「答えてください!」
「――月の輝石にまつわる物語はいくつもあります」
「物語は夜空に散らばった星のように、様々な地域に存在します。山脈や海、民族や宗教を越えて。それは一体なぜでしょうか」
「それは……バドル・アル・ドュジャーがいろんな場所を巡ってきたから……?」
「それらが物語として残っているのはなぜでしょう? この世には、あなたが想像するよりもっと多くの、魔石にまつわる物語があるのです。例えば――いえ、それを今語ったところで、どうしようもないですね。とにかく、世界にはたくさん物語があるのです。たった一つの宝石にまつわる話が。わたしはこう考えます。それは、月の魔石が物語を呼ぶからだ、と。或いは物語が月の魔石を呼ぶのではないか、と。もしくは――その輝石は物語そのものなのではないか」
「どういう意味ですか」
二人の視線が交わる。フィトナの目は真剣そのもの。だが、彼女がどこまで深くバドル・アル・ドュジャーと関わっているかは分からなかった。
「戯言ですよ。私の妄想みたいなものです。私が考えたのは、死に物狂いになった彼が、あの宝石を見つけてくるのではないかということ。案外、見つけてしまったかもしれませんよ?」
「アティーヤさんがずっとずっと探しても見つからなかったものです。そう簡単に見つかるとは思えないです」
「奇跡は起こるかもしれません」
フィトナはあっさりとそう言った。
「奇跡は起こっても、アティーヤさんが何を望むかは分からない……いえ、分かりきってることです」
「そうですか? 物語の行く末は分かりません。ファジュルが何を選ぶか、私には分からないように」
彼女の目はすべてを見透かすかのようだった。
運命の夜が訪れた。
日が沈み闇に支配されたフェルカンド。その中央にある広場に人々は、身を寄せ合うようにして集まっていた。人だかりの中央には、刑を執行するために用意された一本の柱。そちらを見ながら、人々はこれからここに連れられてくる少女について囁き合っている。騒ぐものはいない。大声を出してはいけないような空気がそこにはあった。
しばらくするとひづめの音が聞こえてきた。馬に跨り、十人ばかりの従者を連れて広場に現れたのは、ムアイカドだ。フィトナの姿も見える。そして列の一番後ろ、両手を体の後ろで縛られ、馬に乗せられていたのは、ライルだった。
従者たちは彼女を馬から下ろすと、柱にライルを縛り付けた。
群集はそれを憐憫の情が篭った目で見ていた。皆思うことは同じであっても、それを大声で訴える者はいない。一人が義憤抑えきれず、前に進み出ようとしたが、周りの者達に制止された。
ムアイカドの意に反すれば、どうなるか――柱に縛り付けられ死を待つ少女が、その答えだった。
ムアイカドが連れてきた者の一人が、前に進み出て、ライルの罪状を読み上げていた。だが、ライルはあまりそれを聞いていなかった。
恐怖で頭がいっぱいだったわけではない。死ぬことについて、恐ろしさは感じない。ただただ、無心だった。
しかし、用意されていた槍が目に留まり、少しずつ体が恐怖で蝕まれていく。
人々の前で槍を突き刺される光景が生々しく想像させられた。
あの鋭い槍は、きっと自分の体を深く貫くのだろう。その苦痛に耐え切れず、自分は群集の前で顔を歪めて、無様な悲鳴を上げるのだ。そして、数日前に見た義兄の屍のように、物言わぬ屍になってしまうのだ……。
ライルは縄で縛られている自分の膝が震えているのが分かった。
「奇跡は起こるかもしれません」
蘇ったのはフィトナの言葉。だが、ライルはすぐにそれを振り払おうとした。
……アティーヤさんにそんなこと期待しちゃいけないんだ。
……自分にはそんな価値も無い。
自分はあの時、死ぬはずだったのだから。姉を失った時点で、身よりも無く生きていく手段も持っていない自分に、未来なんてなかったはずなのだから。
フィトナの無責任な言葉を信じ、ありもしない希望にすがりながら最期を迎える――そんな結末は嫌だった。
――落ち着いて。
一つだけ。たった一つだけ、ライルには自らを奮い立たせる方法があった。
自らが望む最期を迎えるため。少女は唇を開く。
「深い深い闇の中に閉じ込められた乙女は――一人冷たい床に座っていました」
人々のざわめきが消えた。宵闇に、少女の凛とした声が響いた。その双眸には、どこにこんな力が残っていたのかと思わせる覇気に満ちていた。
恐怖に震えていた少女は、そこにいなかった。一人の物語り師がいた。
「そして……彼女は商人の青年に想いを馳せます。かつてこの街を訪れた青年に……」
*
イマルがその青年を喰わなかったのは、初めはただの好奇心でした。ですがやがてイマルは青年を殺してしまうのは惜しいと思うようになりました。なぜそう思ったかは、イマルにも分かりません。しかしイマルは青年を逃がしてしまいました。
その罰として、イマルはさそりの像の下に閉じ込められることになったのです。やがてイマルは一人青年の子を産みました。それから間もなくして、また青年はやってきました。
『今のわたしではあなたを助けることはできません。しかしこの子はわたしが育てます。あなたのこともきっと迎えに来るでしょう』
そうして、子を抱きしめて言いました。
『この子があなたの罪深き夜を照らす、夜明けとなるように』
イマルの頬を一筋の涙が走ります。
「ディヤーブ様、わたしはまだあなたのお言葉を忘れてはおりません」
その時、ゴゴッという音がしたかと思うと、天井からほんのわずかですが光が差し込みました。沈んでいたイマルの心は一転、喜びに満ち溢れます。ああ、やはりわたしを助けにきてくれたのね、と胸の内で歓喜の声を上げながら、イマルは外に飛び出しました。しかしイマルを待っていたのは、ディヤーブでも、その子でもありません。月明かりが照らす神殿の中に立っていたのは、いかめしい顔つきの男達でした。
「見つけたぞ、人食い鬼め! 我らがあるじの仇、取らせてもらうぞ!」
先頭の男がそう叫んだので、イマルは彼らが自分を睨みつける理由を理解しました。そして、一族の者達が助けに来ないことに気がつき、自分が本当に一族から見捨てられてしまったことを知りました。
「嗚呼、何ということでしょう」
イマルは自らの境遇に、再び涙しました。男達はといいますと、剣を振り上げイマルを取り囲みます。イマルがいかに人並みはずれた身のこなしをする怪物だとしても、これでは逃げることもできません。
男のうちの一人がまさに剣を振り下ろそうとしたその時です。
「やめろ!」
頭上より鋭い声が飛んできました。見上げた先、宝玉の台座の上にいる人物に、イマルははっと目を見開きました。
「何者だ! 何故ここに来た!」
男のうち、一人が叫びます。
彼はありったけの力を込め、唾を撒き散らし言いました。
「わたくしは人の子であり妖魔の子! ……商人ディヤーブと人食い一族の間に生まれた子で名はファジュルと申します! その娘を助けるためにここに来た!」
イマルがかつて愛した青年にそっくりな、我が子がそこにいました。
*
その場にいた全員が、すべてを忘れて物語を聞き入っていた。
しかし、ムアイカドの吼えるような声がそれを中断させた。
「そこまでだ!」
隣にいたフィトナは、含み笑いを浮かべながら言った。
「どうやら乙女を助けにやって来たのは、ファジュルだけではないようですね」
そして、広場の入り口に視線をやる。皆がそちらを見る。ライルは我が目を疑った。
ライルを助けた青年が。
ライルの物語に熱心に耳を傾けてくれた青年が。
ライルが再び会いたいと願った青年が。
――アティーヤがそこにいた。
彼は何も言わず、ムアイカドの前へと進み出た。
「……何故ここに来た?」
ムアイカドが問うと、彼は静かに答えた。
「私は、その娘を助けるためにここに来た」
広場にやってきた彼は、大きな荷物を背負っていた。腰に剣はない。
「……彼女を助けるための条件は覚えているな」
ムアイカドの言葉に、アティーヤは首肯する。それに目を輝かせたのはフィトナだった。
「では……見つけたのですね? バドル・アル・ドュジャーを……」
何も応えず、彼は地に膝をつき、背負っていた荷物を下ろした。
そして、一つの宝石を取り出す。
松明の光を受けて闇の中、輝きを放つそれは、バドル・アル・ドュジャー――ではなく、翠緑玉の首飾りだった。
大きな宝石を細密な金細工が縁取るそれは、一国の王女の首にあったとしても不思議でないほどの一品だ。――だが、伝説の魔石ではない。
「私の言葉を覚えているな? もっとも価値のある宝石を持って来い……そう言ったはずだ。それがそうだというのか?」
ムアイカドの声には苛立ちが含まれていた。
「いいえ」
そう言うと、彼は荷物から品物を取り出していく。
東洋風の紅玉の耳飾り、金剛石の指輪、薔薇の花の形があしらわれた金の髪飾り、宝石が散りばめられた短剣――すべてが一級の品であることが夜目にも分かる。布を敷いた地面の上に次々と並べられていった。
「驚いた……お前のような若い商人に、これだけのものを用意することが出来るとは。一体どんな手を使ったんだ?」
「自ら目利きしたもの、自らの財産で買い求めただけです」
「これだけのものを用意するのに、どれだけの金貨が必要か……どうやって手に入れたんだ?」
「すべての私財を売り払った――それだけでございます」
驚愕した顔のムアイカドは、貴金属とアティーヤを見比べる。
「すべてを?」
「はい。剣もラクダも、すべてを」
彼はその答えに納得出来なかったらしい。
「……この娘にそこまで価値をあるのか? この――」
ムアイカドはライルのほうに視線をやった。彼女は信じられないものを見る目をこちらに向けていた。
「この、特に美しいわけでもなく、特に優れた能力を持っているでもない、せいぜい物語を語ることしか能のない、やせっぽっちの娘にそんな価値があるのか?」
酷い言い草だったが、それは紛れも無くライルの心を代弁していた。
「――私は宝石商です。宝石に値段をつけても、一人の人間の価値を決めることなんて出来ません。ましてや彼女は、元々私の所有物ではない。私はこれで彼女を買い戻しにきたのではないのです。ですが、私は自らの名に懸けて彼女と約束しました。私が君を無事に家まで送り届ける、と。私は商人です。商人に必要なのは何か? それは品物を運ぶラクダでもない、己の身を守る剣でもない――信用です。信用の無いものとは誰も商売はしない。約束を守ること。それが商人の誇り」
アティーヤは先程並べた短剣を掴んだ。そしてその先端を、自らの喉に突きつける。
そして、示す。
「これは、アティーヤ・ニッサファーの誇りの値段だ!」
命を懸けた、己の誇りを。
アティーヤに気圧され、誰もが口を閉ざした。
ライルは、自分の両目から熱い雫が溢れ出し、頬を伝っているのに気が付いた。
それは、姉を失った時に流した涙とは違う。荒野に降り注ぐ雨のように優しく温かい雫だった。
「――認めないぞ。これじぁあ――」
静寂に包まれた中で、ムアイカドはゆっくりと立ち上がった。手には剣が握られている。
――危ない!
ライルは心の中で叫んだ。しかしアティーヤも、ここまで来ておきながら背中を向けて逃げるわけにもいかない。
今にも斬りかかりそうな彼を、やんわりと制止したのはフィトナだった。彼女の顔を見て、ムアイカドは眉根を寄せる。
「……フィトナ、お前の望むものはまだ……」
「もういいのです」
「お前が良くても、私が不満なのだ」
だが彼女は意思を曲げない。
「いいのです。お座りください」
「お前は私に逆らうのか……!」
彼は怒りの形相でフィトナを睨みつけた。その怒りは、ライルに昨日向けられたものより、さらに強烈だった。彼女は決して自分には逆らわないという自信があったのかもしれない。激情に任せ、彼は、剣を抜いて斬りかかる。その場にいたものは皆、思わず息を呑んだ。
剣はフィトナの首筋に達する直前で止まった。髪が数本宙に舞う。誰かが悲鳴を漏らすのが聞こえた。
しかしフィトナは睫毛ひとつ動かさず、澄ました顔で言った。
「ムアイカド様、彼は私が求める以上のものをこの場に持ってきました」
そしてアティーヤを見て、口元を緩める。
「青年の命を賭けて守るに値する誇り――どんな宝石も、これほど美しくはないでしょう」
*
男達が驚きと怒りでざわめきました。そして叫びます。
「人食い一族の子だと……お前は一体何をしにきたのか!」
青年は誇り高い声で、答えます。
「その娘を永久の夜から救うためにやってきたのだ!」
そして、台座に据えられたあの大きな宝玉に手をかけます。そのまま力をこめて、それをはずしました。台座からずれた宝玉はファジュルの手をすり抜け、その重みにしたがって転がり落ちていきます。
床に達し、地に衝撃が走ったその瞬間。
いきなり強い風が吹きました。
それは立っていることもできぬほどの突風でございます。ファジュルは必死で台座にしがみつきました。イマルや男達も目をぐっと閉じて、風が過ぎるのを待ちます。風の音は轟々と響き渡り、あたかも獣の咆哮のようでした。あるいは神の怒りの声のように聞こえた者もいたかもしれません。
再び目を開けるとそこに広がっていたのは、変わり果てた神殿の姿でした。床はめくれ、壁の装飾は崩れております。さそりの偶像は、片方は腕がもげ、もう片方は倒れていました。
「ああ、何ということだ! 神がっ! 神がお怒りになった!」
「我ら一族は終わりだ!」
物陰で事の成り行きを見ていたのでしょう、人食い一族達が口々に叫びながら飛び出しました。半狂乱になった彼らは蜘蛛の子を散らしたように逃げていきました。
「そんなところに隠れていたのか! 待て! 逃がすものか!」
男達も必死になってそれを追っていきます。崩れかけの神殿にはイマルとファジュルだけが残されました。台座から降りたファジュルはイマルと向かいあいます。イマルは頬を涙で濡らしていました。
「何故あなたは泣いているのですか」
彼女は首を横に振りました。
「それが分からないのです。悲しいわけではないのに何故か目から涙が溢れてくるのです。そうしてあなたの顔を見ていると、胸のあたりが熱くなってくるのです」
「それが、人が人を愛するということなのです」
ああ、そういうことなのですね。イマルはそう言うと、ファジュルに歩み寄ります。
「今ならあの人が言っていたことが分かります。それはあなたのお陰」
そして、イマルは微笑みながら手を差しだしました。
「あなたはわたしの夜明け――ファジュルです」
夜明けの名を持つ青年は、その手を取りました。
*
そして、夜が明ける。