第三夜 物語り師と支配者[2]
その知らせがアティーヤの耳に届いたのは、太陽が上がりきる前だった。
「ライルが……処刑だって……!」
宿で彼女の帰りを待っていたアティーヤは耳を疑い、話を聞いてきた宿のあるじの顔を凝視した。
主の話ではムアイカドは、ライルの物語を神の教えに反するものだと主張したという。反宗教的な物語を流布した背徳者として、彼はライルを糾弾した。明日の夜、広場でライルは火刑に処されることが決められたらしい。
「……何が神の教えだ……俺はアイツの館に酒を売ってる商人を知ってるぞ……礼拝堂にだって週一回も顔を見せねぇ」
主は歯軋りしながら漏らす。女将は口を押さえて、衝撃を隠せない様子だった。もどかしい気持ちはアティーヤも同じだ。
「そんな……あんまりだ。ライルはまだ幼い少女なんですよ! それが…火刑だなんて……こんな道理に合わないことはないでしょう。他の氏族は黙ってるっていうんですか!」
しかし主は渋い顔首を横に振る。
「他の氏族もムアイカドの決定に口は出さないだろうな……。フェルカンドは七つの氏族の権力が均衡することによって成り立っている……それを壊すようなことはしないだろう」
「……じゃあ……どうすれば……」
拳を握り締めたアティーヤは、自分の腰にある剣を目に留めた。一つの考えが、頭の隅を過ぎる。
……これで……ムアイカドを……。
「……いや、だめだ」
そんなことをしたところでどうにもならないだろう。そう思い直し、アティーヤは静かに言った。
「一度、ムアイカドのところに行ってみます」
アティーヤは一人、ムアイカドの屋敷を訪ねた。屋敷の中には案外簡単に通された。アティーヤは回廊を進んだその向こう、屋敷の奥の一室に連れてこられる。
室内には冷めた食べかけの料理の皿がいくつも並べられている。屋敷の主と思しき青年は部屋の奥で寝ころがっている。その傍らにはライルを迎えに来た、美しい女奴隷。
内心ライルの身を案じる気持ちでいっぱいのアティーヤとは対照に、ムアイカドは薄目を開けてまどろみの中にでもいるようだ。アティーヤはたぎる怒りを胸の内に抑え、いつも商売のときに使う朗らかな表情を浮かべながら丁寧な動作でこうべを垂れた。
「お目通りをお許し頂き誠にありがとうございます。わたくしは宝石商のアティーヤ。物語り師ライルの――」
ほんの一瞬、続ける言葉を迷った。
「――身内、でございます」
「……ほぅ、あの娘のねぇ」
横たわったまま腕で頭を支えながらそう言うムアイカドは、自分が一人の少女の命を捻り潰そうとしていることなど、微塵も意識していないようだ。そのことに怒りがないわけでは無かったが、口にするわけにもいかない。
「で、お前はなんでここに来たんだ?」
「はい、ライルの処刑のことですが、もう一度ムアイカド様にご再考願いたく……」
「それは無理だ」
「なぜ! 彼女があなた様にいったい何を……」
「もう決めたことだからだ」
しれっとした様子でムアイカドは言い放つ。その表情は聞き分けのない子供が、自分の我が儘をさも当然のことのように主張しているかのようだ。アティーヤは思わず絶句しそうになりながら、何とかすがりつくように言った。
「……なんとか……なんとかお許しを頂く方法はありませんか」
「うーん、そうだなぁ」
暢気な調子で言う彼に、フィトナはそっと耳元で何か囁く。
「…………、…………」
「ん、なるほど……」
ムアイカドはいたずらを思いついた少年のように笑うと、身を起こした。
「お前は宝石商だったな。それじゃあこうしよう」
そしてムアイカドは、一つの条件を提示する。
「宝石商であるお前が選ぶ、もっとも価値のある美しい宝石を持ってこい。そうしたらあの物語り師の命も助けてやる」
地の彼方から吹き上げた乾いた風が、砂塵を巻き上げる。アティーヤはかすみそうになる視界に目を細めながら、自分が引くラクダの背に座った老人を見上げた。
「大丈夫ですか、ご老人」
老人は皺が深く刻まれた顔をしかめ、ピクリとも動かずにいた。しかしアティーヤの言葉に、僅かに頭を前に傾ける。
強烈な真昼の日差しに加え、この強風だ。老いた彼の体力は、削られる一方だろう。歩き続けるアティーヤもまた、徐々に足が重くなっていくように感じていた。それでもアティーヤがこの老人と共に砂漠まで来たのは、彼がくだんの神殿を知る唯一の人物だったからだ。
ムアイカドの要求した、『最も価値ある美しい宝石』――その言葉に真っ先に思い当たったのは、アティーヤが長年探し求め続けてきた、バドル・アル・ドュジャーだ。そして何の因果か、ライルはそのありかを示す物語をアティーヤに語った。それも今朝、物語の神殿は確かにこの近くにあると告白したのだ。
――行くしかない。
アティーヤはそう直感した。目的はライルを助けるためなのか、それともバドル・アル・ドュジャーを見つけることなのか、あるいはその両方か――アティーヤにも分からない。だが、彼は進む。
「……この丘を越えたその先だ」
老人はしゃがれた声でそう言った。
丘を越えると眼下には古い街の跡が広がっていた。建物はほとんどが跡形もなく崩れ去っており、かつて建物があったことが何とか察することが出来るくらいだ。人の姿などあろうはずも無い。
街の中心には一際大きな建物があったようだ。崩れていて中にも入れそうに無いが、比較的原型が残っている。ここがあの神殿だと、すぐに分かった。アティーヤはそこを目指して、丘を下りていく。
神殿の前で来て、アティーヤ達は地面に男が倒れているのを発見した。
近寄ってみると、彼はすでに絶命していた。肩から腹部にかけて大きく裂けている。剣で斬られたのだろう。溢れ出た血は、周りの地面を赤黒く染めていた。血は乾き、彼が事切れたのはもう随分前であることを示している。
彼はライルの義兄なのだろう。このような所で命を絶たれ、さぞ無念だったに違いない。
「神よ、どうか彼に死後の平安を……」
アティーヤは弔いの言葉を呟き神に祈ると、彼が羽織っていた外套を顔と身体を隠すように掛け直してやった。亡骸を背負って都市まで帰るのは困難だ。今はバドル・アル・ドュジャーを見つけることが先決なので、きちんと弔ってやる余裕もない
「……またライルと共に来ます」
そしてアティーヤは神殿を見た。
神殿は近くで見ると、先程より大きく感じた。崩れた瓦礫は侵入者を阻んでいる。ここからたった一人で一粒の宝石を見つけださなくてはいけない。そもそも宝石があるという保証はどこにも無いのだ。見つけるという確固とした自信もない。それでも、やるしかない。
アティーヤは持ってきた鋤を強く握り締めた。
熱が、疲労が、アティーヤを苛む。瓦礫を除去する作業は全身を使った。日光は容赦なく彼を照りつける。鋤を持つ手はだんだん力が入らなくなってきた。汗が額に浮かび、酷く喉が渇いた。それでもアティーヤは手をとめない。しかし、バドル・アル・ドュジャーはおろか、陶器の破片一つ見つからない。見つかるのは装飾が施されていた壁の破片くらいである。
無常にも時間ばかりが過ぎていく。焦燥をかなぐり捨てるように、彼は一心に作業を続けた。しかし、何も考えないように努めても、脳裏には様々なことが蘇った。家族を失ってから今日までのこと、バドル・アル・ドュジャーのこと、ライルのこと――
――そうだ、俺は必ずやバドル・アル・ドュジャーを手にしなくてはいけないんだ。
手に入れてどうするのか、長らく求めてきたバドル・アル・ドュジャーをライルの命を助けるためとはいえ、やすやす渡してしまってよいものか――それは今は深く考えないようにしていた。どちらにしても、まずバドル・アル・ドュジャーを手にしなくてはいけないのだ。その後で考えればよい。
いまはただ、鋤を振り下ろす。
ただただ、宝石を欲して。
そして――瓦礫をどけると建物以外のものを見つけた。瓦礫の下から赤い布が見える。まさか、と思い瓦礫を取り除いた。
しかし、そこにあったのは二体の屍だった。ならず者らしい風体の男だ。瓦礫に押しつぶされて圧死したのだろう。顔は苦痛で歪んでいる。苦しみながら死んでいったのだろう。
「これが己の欲に溺れたものの末路、か……」
日は沈み、西の空は赤く染まっていた。
あたりが暗くなりアティーヤの身体も、もう動かなくなった。老人が熾した焚き火のそばに、アティーヤは腰を下ろす。砂漠の夜は冷え込むので、暖がとれるのはありがたかった。
アティーヤは街から持ってきたパンと山羊の肉を、炎を挟んで座る老人に渡す。「ありがたや」と小声で言いながら彼は受け取った。
日の光が消えうせた砂漠。静寂と虚空が世界を支配している。忘れ去られた街、無念の中で死んでいった者の亡骸、寒々しく輝く月――
「……夜が明けたら、また宝石を捜すのか?」
老人は、パンを咀嚼しながら言った。アティーヤは静かに首を横に振る。
「それはまた、どうして」
「……ここにはかの宝石はない。……そう思うのです」
アティーヤの記憶の中にあるバドル・アル・ドュジャーは強烈な存在感を放っていた。しかしそんなものは、今この場所では全く感じられない。思い直してみれば、あの宝石がこんな所で砂を被って忘れ去られているわけが無い――そう思うのだ。
そしてこの街ははるか昔に人――あるいは人ならざる者であっても――から忘れられた場所であることが、自ら足を踏み入れてよく分かった。
ファジュルとイマルはここにいたのかもしれない。バドル・アル・ドュジャーもここにあったのかもしれない。しかしそれは遠い過去の話。アティーヤが生まれ、そしてバドル・アル・ドュジャーと出会うよりもずっとずっと昔の話だ。
――なら、どうすればいいんだ。ライルは――
明日、フェルカンドに帰り、それからムアイカドの要求にふさわしい宝石を見つける。しかし、もし見つけられたところでどうすればよいのか。ライルを助けるために、自分が商人として築いた富をすてなければいけないのか。
「若い方よ、あなたも商人だ。商いをするものは時には命ですら秤のかけなくてはならん。大願を成就せんと願うならなおのことだ」
老人は赤く揺らめく炎を見つめながら、諭すように言った。
大願。アティーヤの望み。それは復讐を果たすことだ。そのためにバドル・アル・ドュジャーを見つける。商人としての成功も、そのための手段に過ぎなかったはずだ。
だが――
「果たしてそれでよいのか……?」
夜空を仰ぎ見て、アティーヤは問う。
しかし月は、何も言わずに人を見下ろすばかりだった。
月明かりだけがほのかに部屋の中を照らし出す。
室内はひどく殺風景だった。壁も床もむきだし、家具は一つもない。高い位置にある窓には、鉄格子が嵌められている。
ライルはそんな部屋の隅で、身動き一つせずに、膝を抱え座っていた。目を伏せ、息を潜めて、彼女は待つ。
語るべき時が来るのを。
そこに一人の乙女が入ってきた。
「気分はいかがですか」
美しき乙女――フィトナは、表面上は心配する素振りを見せながら問うた。ライルが力なく首を横に振ると、「何か食べ物でも用意しましょうか?」と言った。ライルは返事をしなかった。
「……待っているのですか」
彼女の声はどこまでも甘やかだ。
「――あの青年を」
その言葉に、ライルは思わず顔を上げた。
「……まさか。アティーヤさんにはそこまでする義理はないです」
「では、あなたは死んでしまいますよ」
死。その言葉が、ライルの胸に刺さる。
「それで良いのですか? ムアイカド様の気まぐれで、命を奪われてしまって」
「もともと、あの神殿で死ぬ命でした。もうわたしには身寄りもありません」
ライルの心は、姉を失い悲嘆に暮れていた時へと逆戻りしていた。
……自分にはもう未来はない。
ライルには、一人で生きていくことは出来ない。だが家族ももういない。
「――ただ、心残りなのは……」
一人目を閉じると心の中に映し出されるのは、アティーヤと過ごした時間だ。自分が語り、アティーヤがそれに耳を傾ける。アティーヤの真剣な眼差しが、ライルには嬉しかった。
だがそのように語ることももうない。
そう思うと悲しみで胸が塞がりそうだ。――だが。
「私も残念です。至上の物語り師の語りがこのような形で終わってしまうのは」
フィトナは皮肉なほど残念そうに言った。だが。
「……終わりません」
ライルは音も無く立った。
「終わらせません。約束しましたから。何かあっても、物語り師として、物語を語ると」
己の宿命に臆することなどせず、彼女の両眼はまっすぐ前を見据える。その瞳は月の光を受けてか、輝いて見えた。
そして、ゆっくりと息を吸い――
「自らの数奇なさだめを知り、神殿を立ち去ったファジュル。イマルは一人神殿に残されました」
ライルの小さな唇が物語を紡ぎだす。
「たった一人、悲しみに打ちひしがれるイマル――そこに現れたのは……」
人食い鬼の娘とその子の物語を。
*
そうしていると、白い髪と肌を持った者達が物陰からぞろぞろと出てきました。彼らはイマルの仲間、人食い一族達でございます。年齢も性別も様々である彼らは、イマルの周りを取り囲みました。その中でも最も高齢である一族の長は、低い声で唸るように言いました。
「イマルよ。お前が外の人間を逃がしたのはこれで二度目。次こそは一族の掟に従い、あの男をアクラブの神に献上することを期待して、我らはお前を見ておった。だがお前は、またしても人間を逃がしてしまったのだ!」
「しかし長……」
イマルが言うと、長はそれを一喝しました。
「だまれ! 如何なる言い訳も通じぬ! たとえ我らがお前を許そうとも、アクラブの神がお前を許さぬだろう」
そして長は周りの者に目配せします。彼らは、さそりの像の足元の床をずらしました。すると、吸い込まれるように暗い穴が姿を現しました。床下に広い空間があるようでした。
「一度目はたった十年閉じ込めただけで済んだ。だが今度は二度目。もう二度と外に出てこられると思うなよ。死ぬまでアクラブの神の下で悔いるがよい」
その頃ファジュルは街を出て、砂漠を一人とぼとぼと歩いておりました。
先日父を亡くして歩いていた時とは別の絶望がファジュルの両肩にのしかかります。青年は信じ難い事実から遠ざかろうと、足を進めます。しかし彼の心は、一歩踏みしめるごとに重くなっていくのです。
ふと前を向くと、こちらに向かってくる一団に気付きました。馬に跨ったその一団は砂塵を巻き上げながら、すさまじい勢いでこちらに向かってきます。一瞬また盗賊が現れたのかと思いましたが、そうではないようでした。一団は若い男だけで構成されており、皆丈夫な鎧を纏っております。
一団はファジュルに気がつき、足を止めます。その先頭の、逞しい青年がファジュルを見て驚きの声を上げました。
「こんな所で一人、馬にも乗らずにどうなさったのか!」
「実は父や仲間を盗賊に殺されてしまったのです」
あの人食い鬼のことまで言う気にはなれず、ファジュルはそのようにだけ答えました。すると青年は同情をあらわにしました。
「なんとお可哀相な! 助けてさしあげたいのはやまやまなのですが、我らはあるじのかたき討ちに向かう途中なのです。というのも、この先に化け物どもが住む街があるのですが、あるじはその化け物に弟君を喰われてしまったのです。我らがあるじは勇敢にも一人で、かたき討ちのためにその街に赴かれた。しかし未だあるじは帰りませぬ。きっと、化け物どもの餌食になってしまわれたのだろう……」
青年達は悔しそうに唇を噛みしめております。ファジュルは心を痛めるような顔をしながらも、昨夜イマルが喰った男のことを思いだしておりました。青年らのあるじとは、間違いなくあの男なのでしょう。
「あなたも化け物にはお気をつけなさい。人がいる街へは、我々が通った跡を辿っていけば着くでしょうから」
そう言い残すと、一団はイマルのいる街のほうへ去っていきました。一人残されたファジュルはまた歩きます。ファジュルは心を無にして、歩きました。しかし、どうしてもイマルの顔が頭の隅を過ぎります。そして先程の一団も。
「父上よ、あなたはわたくしにどうしろとおっしゃるのか」
目を閉じれば、瞼の裏に父と過ごした日々の記憶が蘇ります。父は時に厳しく、しかし愛情をもってファジュルを育てました。父はファジュルがイマルの――人食い一族の子であることを知っていたはずです。しかし、そんなことはまったく関係なく、父はファジュルを、愛を持って育てました。
そのことが答えのように思えました。
太陽は西の空に沈み、また夜が訪れようとしていました。
*
そして夜は更け、ファジュルとイマル、そしてアティーヤとライルの物語は終わりへと近づく。