閑話 消去法
死ぬ前の私は、特別ではなかった。
二十六歳。市立図書館の司書。毎朝同じ時間に起きて、同じ路線で通勤して、同じ書架を整理して、同じ時間に帰った。悪い人生じゃなかった。ただ、特別なことも何もなかった。
友人が少なかった。嫌いだったわけじゃない。関わり方が分からなかった。深く関わると、覚えすぎた。相手の癖も、口調も、好きなものも、全部入ってきた。消えなかった。それが重かった。だから少し、距離を置いていた。
図書館の仕事は好きだった。本は何も言わなかった。背表紙を覚えても、本は何も感じない。返却された本の傷の位置を全部覚えていても、本は困らない。そういう仕事が、合っていた。
死んだのは通勤途中だった。階段で転んできた人に巻き込まれた。後頭部を打った。それだけのことだった。
後悔は、あまりなかった。
あまり、というのは、少しはあったということだ。もう少し誰かと話せばよかったかもしれない。もう少し深く関わればよかったかもしれない。ただそれも、大きな後悔じゃなかった。そういう人生だった。
◆
転生してすぐ、困った。
何もなかった。金もなかった。家もなかった。知り合いもいなかった。記憶スキルしかなかった。
石畳の道を歩きながら、考えた。
農業は土地がいる。商業は元手がいる。職人は技術がいる。全部、今の私には無理だった。記憶スキルしかない人間に、できることは少なかった。
ギルドに登録したのは、消去法だった。
他に選びようがなかった。戦えないことは分かっていた。魔法も使えなかった。それでも、荷物持ちくらいならできると思った。道を覚えることくらいならできると思った。積極的な理由じゃなかった。他に行くところがなかっただけだった。
受付の女性に「称賛ではありません」と言われた。
「分かっています」と答えた。
本当に分かっていた。称賛される理由が何もないことは、自分が一番よく知っていた。
◆
最初の一週間、誰にも雇われなかった。
掲示板の前に立って、依頼票を眺めた。全部、戦闘が前提だった。私には無理だった。食事代だけが減っていった。宿の木の床が少し傾いていた。天井の木の節が三つあった。全部、覚えた。消えなかった。
八日目に、カルロスが声をかけてきた。
「道を覚えてくれる人間が欲しい」と言った。「方向音痴で」と言った。
断る理由がなかった。他に声をかけてくる人間もいなかった。消去法だった。
カルロスのパーティーに入った。荷物持ちと地図係として。それだけだった。
◆
カルロスと四ヶ月、一緒にいた。
覚えていった。鼻から息を吐いてから笑う癖。硬いパンへの執着。剣の柄の「K」の文字。戦闘中に仲間が追い詰められたとき、一瞬だけ状況を確認してから迷わず前に出ること。
覚えながら、怖かった。
この人もいつか死ぬかもしれない、と思っていた。思いながら、覚え続けた。やめられなかった。見えるものが全部入ってきた。選べなかった。
カルロスが死んだ。
「走れ」という声が最後だった。ゴットとシーナは三日で忘れた。私だけが覚えていた。
覚えていることが何の役に立つのか、そのときはまだ分からなかった。ただ消えなかった。カルロスが死んでも、私の中のカルロスは消えなかった。鼻から息を吐いてから笑う。硬いパン。「K」の文字。全部、そのままあった。
重かった。
◆
ルーカスとアンナのパーティーに入ったのも、消去法だった。
カルロスが死んで、一人になった。また掲示板の前に立った。また誰にも雇われなかった。五日目に、ルーカスが声をかけてきた。
断る理由がなかった。
ルーカスを覚えていった。夜中に一人で弓の動作を繰り返す。百回以上。鶏肉だけ残す。「笑うか」と先に言う。一秒で前を向く。
覚えながら、また怖かった。
この人も死ぬかもしれない、と思った。カルロスのときと同じだった。思いながら、覚え続けた。やめられなかった。
ルーカスが死んだ。
崖から落ちた。あっという間だった。アンナが声を出せなかった。私も何も言えなかった。
三日後、アンナだけが「なんか聞いたことある気がする」と言った。
その言葉を、今も覚えている。
アンナにルーカスのことを話した。全部話した。弓が上手だったこと。夜中の練習。鶏肉のこと。最後にあなたを逃がしたこと。
話し終えて、アンナが胸を押さえたまま黙っていた。
何かが、少し変わった気がした。
覚えていることが何かに使えた気がした。使えた、というより、渡せた気がした。私の中にあったルーカスの細部が、アンナに渡った気がした。
◆
冒険者になったのは消去法だった。
カルロスのパーティーに入ったのも消去法だった。ルーカスのパーティーに入ったのも消去法だった。積極的な理由は何もなかった。他に行くところがなかっただけだった。
ただ、覚えてきた。
消去法で選んだ道の上で、消せないものが積み重なっていった。カルロスの笑い方。ルーカスの夜の練習。アンナが黙って鶏肉を寄せたこと。全部、消えずにそこにある。
それが何のためなのか、まだ分からない。
ただ、アンナの前でルーカスのことを話したとき、少しだけ、分かりかけた気がした。
気がした、だけかもしれない。
それでも、今日もギルドに行く。掲示板の前に立つ。消去法で次を選ぶ。
それだけのことだった。




