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閑話 消去法

死ぬ前の私は、特別ではなかった。


二十六歳。市立図書館の司書。毎朝同じ時間に起きて、同じ路線で通勤して、同じ書架を整理して、同じ時間に帰った。悪い人生じゃなかった。ただ、特別なことも何もなかった。


友人が少なかった。嫌いだったわけじゃない。関わり方が分からなかった。深く関わると、覚えすぎた。相手の癖も、口調も、好きなものも、全部入ってきた。消えなかった。それが重かった。だから少し、距離を置いていた。


図書館の仕事は好きだった。本は何も言わなかった。背表紙を覚えても、本は何も感じない。返却された本の傷の位置を全部覚えていても、本は困らない。そういう仕事が、合っていた。


死んだのは通勤途中だった。階段で転んできた人に巻き込まれた。後頭部を打った。それだけのことだった。


後悔は、あまりなかった。


あまり、というのは、少しはあったということだ。もう少し誰かと話せばよかったかもしれない。もう少し深く関わればよかったかもしれない。ただそれも、大きな後悔じゃなかった。そういう人生だった。



転生してすぐ、困った。


何もなかった。金もなかった。家もなかった。知り合いもいなかった。記憶スキルしかなかった。


石畳の道を歩きながら、考えた。


農業は土地がいる。商業は元手がいる。職人は技術がいる。全部、今の私には無理だった。記憶スキルしかない人間に、できることは少なかった。


ギルドに登録したのは、消去法だった。


他に選びようがなかった。戦えないことは分かっていた。魔法も使えなかった。それでも、荷物持ちくらいならできると思った。道を覚えることくらいならできると思った。積極的な理由じゃなかった。他に行くところがなかっただけだった。


受付の女性に「称賛ではありません」と言われた。


「分かっています」と答えた。


本当に分かっていた。称賛される理由が何もないことは、自分が一番よく知っていた。



最初の一週間、誰にも雇われなかった。


掲示板の前に立って、依頼票を眺めた。全部、戦闘が前提だった。私には無理だった。食事代だけが減っていった。宿の木の床が少し傾いていた。天井の木の節が三つあった。全部、覚えた。消えなかった。


八日目に、カルロスが声をかけてきた。


「道を覚えてくれる人間が欲しい」と言った。「方向音痴で」と言った。


断る理由がなかった。他に声をかけてくる人間もいなかった。消去法だった。


カルロスのパーティーに入った。荷物持ちと地図係として。それだけだった。



カルロスと四ヶ月、一緒にいた。


覚えていった。鼻から息を吐いてから笑う癖。硬いパンへの執着。剣の柄の「K」の文字。戦闘中に仲間が追い詰められたとき、一瞬だけ状況を確認してから迷わず前に出ること。


覚えながら、怖かった。


この人もいつか死ぬかもしれない、と思っていた。思いながら、覚え続けた。やめられなかった。見えるものが全部入ってきた。選べなかった。


カルロスが死んだ。


「走れ」という声が最後だった。ゴットとシーナは三日で忘れた。私だけが覚えていた。


覚えていることが何の役に立つのか、そのときはまだ分からなかった。ただ消えなかった。カルロスが死んでも、私の中のカルロスは消えなかった。鼻から息を吐いてから笑う。硬いパン。「K」の文字。全部、そのままあった。


重かった。



ルーカスとアンナのパーティーに入ったのも、消去法だった。


カルロスが死んで、一人になった。また掲示板の前に立った。また誰にも雇われなかった。五日目に、ルーカスが声をかけてきた。


断る理由がなかった。


ルーカスを覚えていった。夜中に一人で弓の動作を繰り返す。百回以上。鶏肉だけ残す。「笑うか」と先に言う。一秒で前を向く。


覚えながら、また怖かった。


この人も死ぬかもしれない、と思った。カルロスのときと同じだった。思いながら、覚え続けた。やめられなかった。


ルーカスが死んだ。


崖から落ちた。あっという間だった。アンナが声を出せなかった。私も何も言えなかった。


三日後、アンナだけが「なんか聞いたことある気がする」と言った。


その言葉を、今も覚えている。


アンナにルーカスのことを話した。全部話した。弓が上手だったこと。夜中の練習。鶏肉のこと。最後にあなたを逃がしたこと。


話し終えて、アンナが胸を押さえたまま黙っていた。


何かが、少し変わった気がした。


覚えていることが何かに使えた気がした。使えた、というより、渡せた気がした。私の中にあったルーカスの細部が、アンナに渡った気がした。



冒険者になったのは消去法だった。


カルロスのパーティーに入ったのも消去法だった。ルーカスのパーティーに入ったのも消去法だった。積極的な理由は何もなかった。他に行くところがなかっただけだった。


ただ、覚えてきた。


消去法で選んだ道の上で、消せないものが積み重なっていった。カルロスの笑い方。ルーカスの夜の練習。アンナが黙って鶏肉を寄せたこと。全部、消えずにそこにある。


それが何のためなのか、まだ分からない。


ただ、アンナの前でルーカスのことを話したとき、少しだけ、分かりかけた気がした。


気がした、だけかもしれない。


それでも、今日もギルドに行く。掲示板の前に立つ。消去法で次を選ぶ。


それだけのことだった。

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