第4話 アンナ
次のパーティーは、兄妹だった。
ルーカスとアンナ。二人とも弓使いだった。ルーカスは二十歳、アンナは十八歳だった。
最初に会ったとき、二人は言い合いをしていた。
「お前、昨日から射角が浅くなってる」
「なってない」
「なってる。昨日より三度は浅い」
「なんで分かるの」
「見てたから」
アンナが黙った。ルーカスが鼻を鳴らした。
一秒後には何事もなかったように前を向いた。
「マモルさんだっけ。よろしく」
声が明るかった。言い合いはもう、終わった話として処理されていた。
◆
ルーカスは弓の腕が確かだった。動体視力がよかった。走りながら射っても当てた。戦闘中、アンナに短い言葉で指示を出した。「左」「上」「二歩引いて」。それだけで通じていた。
言い合いをよくしていたが、戦闘中は息が合っていた。
「お前ら、よく喧嘩するな」とパーティーの別の仲間が言ったことがあった。
「喧嘩じゃない」
「言い合いじゃないですか」
「それが喧嘩だろ」
「喧嘩は引きずります。私たちは引きずらない」
「そうそう」
二人が珍しく意見が一致した瞬間だった。
◆
マモルはルーカスの戦い方を覚えていった。
走りながら射つとき、右足が踏み込む瞬間に息を止める。距離が遠いとき、少しだけ顎を引く。アンナへの指示は短く、迷わなかった。「左」と言うとき、すでに自分は右に動いている。
二人の連携は長い時間の積み重ねだった。
ある依頼の帰り道、ルーカスが言った。
「お前、戦闘中によく声出すな」
「覚えていることを言っているだけです」
「それが助かってる」
「そうですか」
「アンナには言うな」
「何を、ですか」
「助かってるって言ったこと」前を向いたまま言った。「あいつ、調子に乗るから」
マモルは何も言わなかった。
翌日、アンナが聞いてきた。
「昨日のルーカスの動き、良かったと思わない?」
「思います」
「私のおかげだけど」
ルーカスが聞こえていないふりをしていた。耳が少し赤かった。
それを、覚えた。
◆
宿の食堂で夕飯を食べていたとき、アンナがルーカスに言った。
「今日の崖際、右に回り込んだの、なんで」
「左は崖が近い」
「右は射線に入る」
「お前が先に落とせばいい」
「落とせるけど、一言あってもいいでしょ」
ルーカスが少し間を置いた。
「……次から言う」
「言わなくていい。ちゃんと動けたから」
「どっちだよ」
アンナが箸を置いた。ルーカスが黙った。
一秒後、二人とも飯に戻った。
マモルはそれを見ていた。
言い合いが終わるたびに、何かが少し変わっていた。次の動き方が。距離の取り方が。言葉にならないまま、二人の間で決まっていくものがあった。
それを、覚えた。
◆
ある夜、眠れなかった。
廊下に出ると、宿の端の部屋から灯りが漏れていた。
ルーカスがいた。
弓を持っていた。矢を番える動作を繰り返していた。射つわけではなかった。ただ繰り返していた。引いて、戻す。引いて、戻す。音がしなかった。静かだった。
マモルは声をかけなかった。
ルーカスは気づいていなかったか、気づいていても黙っていた。どちらか分からなかった。
廊下の端に座って、しばらく見ていた。繰り返される動作。変わらない角度。一定のリズム。誰にも言わない夜の練習。
何回繰り返したか、数えていた。
百を超えた。まだ続いていた。
それを、覚えた。
◆
翌朝の朝食のとき、アンナが言った。
「昨日より射角が良かった」
「なんで分かるの」
「見てたから」
ルーカスが黙った。アンナが鼻を鳴らした。
マモルはそれを聞いていた。
昨夜、百回以上繰り返していたことは、言わなかった。
◆
夕飯のとき、ルーカスが鶏肉だけ残した。
アンナは食堂の別の席にいた。気づいていなかった。
マモルは隣にいた。
「嫌いですか」
「嫌いじゃない」
「じゃあ」
「……子どもの頃、飼ってたから」
小声だった。
「笑いません」
ルーカスが少し間を置いた。それから、鼻を鳴らした。
次の日の夕飯。アンナと三人で同じ席だった。ルーカスがまた鶏肉を残した。
アンナが何も言わなかった。
その翌日も残した。アンナが何も言わなかった。
四日目。アンナが自分の皿の鶏肉をルーカスの皿の端に寄せた。
理由は言わなかった。ルーカスも何も言わなかった。
それを、覚えた。
◆
依頼の帰り道、雨が降った。
軒下で雨宿りをした。三人並んで、雨が止むのを待った。
アンナが言った。
「マモルさんって、私たちのこと全部覚えてるの」
「覚えています」
「何が一番覚えてる」
マモルは少し間を置いた。
「鶏肉を皿の端に寄せていること」
アンナが黙った。ルーカスが雨を見たまま動かなかった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
雨の音がした。
アンナがルーカスを見た。ルーカスは雨を見ていた。
それだけだった。
◆
その翌朝、ルーカスが食堂に来た。
いつもより少し遅かった。目が半分しか開いていなかった。水を一杯飲んだ。それからいつも通り弓の確認をした。弦の張りを指で確かめて、矢を一本抜いて羽根の状態を見た。問題ないと確認して、また戻した。
朝飯を食べた。
鶏肉を残した。
アンナが自分の皿から鶏肉をルーカスの皿の端に寄せた。
ルーカスが何も言わなかった。
アンナが何も言わなかった。
それだけだった。
マモルはそれを見ていた。覚えた。消えなかった。
◆
ルーカスが死んだのは、半年後だった。
崖の上での依頼だった。新種の魔物だった。予想より速かった。ルーカスが引きつけた。後ろのアンナを、マモルを、誘導した。
崖から落ちた。
魔物に押された。あっという間だった。
アンナが声を出そうとした。声が出なかった。
マモルは崖の縁を見た。ルーカスはいなかった。
風の音がした。
アンナがその場に座り込んだ。膝の上に手を置いた。動かなかった。
マモルは崖の縁に立ったまま、何も言えなかった。
夜中に一人で弓の動作を繰り返していたことを思った。百回以上。誰にも言わなかった。
朝、弦の張りを確かめていたことを思った。今朝のことだった。
◆
三日後。
パーティーに別の二人、トムとエルナが加わっていた。四人で朝飯を食べていた。
「ルーカスって、誰だ?」
「知らない」
アンナだけが、少し首を傾けた。
「……なんか、聞いたことある気がする」
マモルは息を止めた。
「でも誰だっけ」
アンナが自分の胸を押さえた。眉が少し寄った。視線が宙を泳いだ。
「……なんか、変な感じ」
アンナの手が、まだ胸の上にあった。
「気のせいかな」
アンナが首を振って、また朝飯に戻った。
朝食の皿に鶏肉があった。アンナは食べた。普通に食べた。
何も残さなかった。
マモルは何も言わなかった。
ルーカスのことを、頭の中で思った。
弓を引く動作を繰り返していた夜。百回以上。鶏肉を残したこと。一秒で前を向くこと。アンナの皿の鶏肉を、黙って受け取っていたこと。
全部、覚えていた。
アンナの頭の中から消えた兄を、マモルだけが覚えていた。
◆
その夜、アンナに声をかけた。
「ルーカス、という人間のことを聞いたことがありますか」
アンナはしばらく黙った。
「……聞いたことがある、気がします。でも誰か分からなくて」
「あなたの兄です」
アンナが止まった。
「兄、ですか」
「はい」
「……私に、兄がいたんですか」
「いました」
アンナは少し間を置いた。胸を押さえた。さっきと同じ動作だった。
「なんで覚えてないんですか、私」
アンナが黙っていた。
「……どんな人でしたか」
マモルは少し間を置いた。
「弓が上手でした。走りながら射っても当てました。夜中に一人で練習していました。誰にも言いませんでした。鶏肉だけ残しました。子どもの頃に飼っていたからだと、小声で言いました。あなたに射角が浅いと言い続けていました。一秒後には何事もなかったように前を向きました」
アンナが黙っていた。
「最後に、あなたを逃がしました」
アンナがまた胸を押さえた。今度は少し長く、そのままでいた。
それだけだった。




