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第1話 記憶というスキル

死んだのは、通勤途中だった。


駅の階段を降りていた。上から誰かが転んできた。反射的に避けようとした。避けられなかった。後頭部を打った。それだけのことだった。


痛くなかった。音がした。それから何もなかった。



目が覚めると、白かった。


白い、というより何もなかった。床があるのか分からなかった。立っているのか、浮いているのか、横になっているのかも分からなかった。ただ、白かった。


光の塊がいた。性別も年齢も分からなかった。ただ、そこにあった。光そのものだったが、どこかに重さがあった。長いものを背負ってきた、そういう重さだった。


「転生させます」


「はあ」


返事をしてから、自分が声を出せることに気づいた。体があるのかも分からなかったが、声は出た。


「スキルを一つ、お渡しします」


神田マモル、二十六歳、市立図書館司書は、少し考えた。


チートが欲しかった。剣が使えるとか、魔法が使えるとか、ステータスが異常に高いとか。とにかくそういうやつが欲しかった。異世界転生の話なら図書館でいくらでも読んだ。どれも主人公は最初から何か持っていた。


「記憶、というスキルはいかがでしょう」


「……記憶?」


「見たものをすべて記憶します。忘れません。永続します」


「戦えますか」


「戦えません」


「魔法は」


「使えません」


「ステータスは上がりますか」


「上がりません」


マモルは少し間を置いた。


「他に選択肢は」


「ありません」


そういうものらしかった。


「役に立ちますか」


光の塊が少し、黙った。


「使い方によります」


「使い方が分からなかったら」


「……分かると思います」


自信がある言い方ではなかった。どちらかというと、そうであってほしいという言い方だった。


光の塊は最後にもう一つだけ言った。


「大切に使ってください」


その言葉には、どこか疲れたものがあった。義務として言っているのでもなく、儀礼として言っているのでもなく、ただそこに言葉があって、それを言わずにはいられないような、そういう疲れ方だった。


マモルはそのとき、その重さを測れなかった。


白が、消えた。



異世界は、思ったより普通だった。


石畳の道。露店の掛け声。荷馬車の軋む音。剣を腰に差した人間。ローブを着た人間。魔物の話をしている人間。見えるものが全部、頭の中に積み重なっていった。


消えなかった。


覚えようとしていないのに、見ただけで残った。石畳のひび割れの入り方。露店に積まれたパンの数。ローブを着た男の左手の薬指にある傷。全部、入ってきた。選べなかった。消せなかった。


立ち止まって、目を閉じた。


まぶたの裏に、さっきまで見ていたものが全部あった。石畳の模様。露店の主人の顔。すれ違った子どもの靴の泥の付き方。


目を開けた。また入ってきた。


角を曲がったところに、猫がいた。耳の先が少し欠けていた。右前足を舐めていた。三回舐めてから顔を上げた。こちらを見た。目が黄色かった。しばらくそのままだった。それから興味をなくして、また足を舐め始めた。


全部、残った。


頭の中に積み重なっていった。


選べなかった。消せなかった。止められなかった。


路地の奥に干してある洗濯物の枚数。屋台で焼いている肉の焦げ目の入り方。荷馬車を引いている馬の右後ろ足に、古い傷の痕があること。


全部。


全部、入ってきた。


図書館にいたころ、閉館後に書架を整理しながら、今日返却された本の背表紙を全部覚えていることに気づいたことがあった。タイトルだけじゃなかった。傷の位置。折れていたページの角。前の借り手が挟んだらしい、薄いレシートの痕。


そのときは、便利だと思った。


今は、そうは思わなかった。



ギルドに登録した。


受付の女性がステータスプレートを確認して、少し表情が止まった。


「……スキルが、記憶、ですか」


「そうです」


「戦闘スキルは」


「ないです」


「魔法は」


「ないです」


「ステータスは」受付の女性はプレートをもう一度確認した。「平均、ですね」


「そうみたいです」


女性は困ったような顔をした。困ったが、仕事なので登録した。ペンを走らせながら、少し間を置いた。


「記憶スキルの方は——あなたで、二人目です」


マモルは顔を上げた。


「二人目、ですか」


「はい。ずいぶん昔のことですが」受付の女性は、何かを思い出そうとするように目を細めた。それから、小さく首を振った。「すみません。台帳には残っているんですが、顔が思い出せなくて」


「……そうですか」


「ギルド史上、二人目です。ただし」受付の女性は申し訳なさそうに付け加えた。「称賛ではありません」


「分かっています」


「一人目の方は——どうなったんですか」


受付の女性が少し間を置いた。


「台帳には、除籍、とあります」


「除籍」


「はい。理由は書いていません」


それ以上は聞かなかった。女性も、それ以上は言わなかった。


登録票を受け取って、振り返った。



酒場の隅から声が聞こえた。


「記憶って何だよ。役に立つのかそれ」


「戦えないじゃん。魔物に何するの、覚えるの?」


笑い声が続いた。テーブルを叩く音がした。誰かが飲み物を吹き出したらしく、布で拭く音がした。


マモルは聞こえていた。全部、聞こえていた。


声の主は二人だった。一人は茶色い髪で、左の頬に小さな傷があった。もう一人は背が高く、ジョッキを両手で持って飲んでいた。笑い方が似ていた。たぶん長い付き合いだった。


全部、頭に入った。


消えない。この二人の顔も、声も、笑い方も、ずっと残る。


ただ、何も言わなかった。


言ったところで、どうにもならない。


否定もできなかった。



宿を探した。安い宿があった。木の床が少し傾いていた。窓の建て付けが悪かった。夜になると風の音が入ってきた。


全部、覚えた。


消えなかった。


部屋に入った。荷物を置いた。窓から外を見た。石畳の道が見えた。さっき歩いた道だった。ひび割れの位置が全部分かった。どこにどんな傷があるか、目を閉じても見えた。


横になって、天井を見た。木の節が三つあった。右から二番目の節は、形が少しひしゃげていた。右端に蜘蛛の巣の痕があった。


目を閉じても、見えた。


眠れなかった。


頭の中が止まらなかった。今日見たもの全部がそこにあった。白い空間。光の塊の重さ。異世界に降り立ったときの石畳の冷たさ。猫の黄色い目。ギルドの受付の女性が少し困った顔をしたこと。登録票のインクの染み。酒場で笑っていた二人の顔。


消えなかった。


目を開けた。天井の木の節が三つあった。


目を閉じた。天井の木の節が三つあった。


同じだった。開けても閉じても、同じだった。


「使い方によります」と光の塊は言っていた。


使い方が、分からなかった。


戦えない。魔法も使えない。ステータスも上がらない。覚えるだけだ。全部、覚えるだけだ。それが何の役に立つのか、まだ分からなかった。


ただ、消えないことだけは分かった。


覚えることはすでに、重さとして始まっていた。

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