三歳を過ぎても話さなかった幼き王子が、初めて言葉をくれた日
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王妃の間から産声が聞こえる。
先ほどまでお腹の中にいた小さいけど大きな存在。
膝を折りたたみうつ伏せ姿。呼吸する度に上下する王妃の胸の上で、静かな寝息を立てている王子。
王妃の澄んだ碧眼は潤んでいる。
涙で濡れている睫毛は王子が生まれる十五時間前から続いていた。
金糸の束が解けて散らばったように髪が乱れている。
今はこの小さな我が子の姿に痛みさえも求めている。
これがちゃんと現実なのだと実感したかった。
人の出入りする音が聞こえる。
少しすると、王の姿が目に入ってきた。
目の前の王の瞳は小刻みに左右へ動いている。
王の視線の先には小さな王子。
王の動きが止まる。
目から一筋の涙が頬を伝った。
王自身も目を見開き、頬のそれを指で探る。
溢れる涙を隠すように、目頭を指で押さえた。
その手は震えている。
それを見た時、何かを考える前に王妃の胸の奥で温かなものが広がった。視界が滲む。
王妃の頬にも熱い何かが伝う。
王妃はやっと実感した。
* * *
時の鐘がこの朗報を国中へ届ける。
王都の聖教会広場には王家の紋章が描かれた旗を振り、歓声が上がる。
王子ルーカスの生まれた翌日、
聖教会の中では光の祝福が執り行われた。
生まれたばかりのルーカスはおくるみにしっかりと巻かれて王妃の腕の中に眠っている。
祭壇の中央部にはステンドグラスから差し込んだ柔らかな光が幼き額を照らす。
司祭はルーカスの額に聖油と百合の花弁を授けた。
すると額が仄かに明るくなり『光の加護』を受けたことを見届けた。
司祭は静かに言葉を紡いだ──
「ルーカス様に、アルディナの光と慈愛の加護あれ」
教会の大聖堂では、声が幾重にも反響した。
それから王国の関心は幼き王子に集中。
王子のことを誰がよく知っているか国民までも競い合っていた。
天気の話より王子の話。
王都では春風に乗って弾んだ声が広場を活気づけていた。
それは王城も同じ。
王子の住む光の部屋の当番を奪い合うように侍女たちは侍女長に掛け合った。
座を射止めた侍女が献上品の中から触り心地の良い兎と熊のぬいぐるみを抱きかかえて王妃の部屋にやってきた。
部屋の中央にはベビーベッド。
そのベッド脇にメリー──月、星、太陽など宇宙をつくる。
白を基調としたパステルカラーの可愛らしい最高級のシルクリネン。
乳母に抱かれた王子をあやしている王妃はドアの方へ笑顔を向けた。
侍女も顔を綻ばせながらそれらを王妃へ見せる。
「カリナ様、生命力を表す兎と強さを表す熊をお持ちしました。ルカ様が気に入ってくれると良いのですが」
カリナは指をくすぐられるような柔らかさと温かみをぬいぐるみに感じた。
「ルカはどちらが好きかしら?」
ルーカスの瞳を覗き込んで、胸が躍るカリナ。
「うぁ~あ」
風にかき消されそうなか弱い声が耳の奥に残る。
その一瞬一瞬をずっと目に焼き付けておきたいほど。甘く心が震えているのをルカが生まれてから数え切れないほど感じていた。
「この子は初めての言葉をなんていうのかしら?」
カリナは自分を呼ぶルーカスの姿を頭の中に焼き付けるほど想像を巡らせていた。
その日が来るのに三年を超える月日が流れるとは誰も想像をしていなかった。
* * *
王と王妃の寝室──。
上質なワインレッド色の天井、光に煌めくシャンデリア。
柔らかいベッドがの身体の重みに大きくたわみ、気品溢れるベルベットに包まれる。
声が天蓋に弾んでは跳ね返った。
「カリウス様、今日はルカがハイハイしたんですよ」
「そうだったのか。寝返りの時も見逃したがハイハイまで見逃してしまうなんて。明日の朝はルカの部屋に行こう」
カリウスは精悍な顔を崩して口を尖らせている。
カリナは言葉が出る前に自分の口元が緩むのを感じていた。
「ふふっ、おすわりの時は間に合いましたわ。明日は一緒に行きませんか?」
カリウスの碧眼がカリナを捉える。近づいてきた長い指は、少し乱れている金糸のような髪を撫でる。
心がくすぐられるようだった。
カリウスの賛成が十分伝わる仕草。
ルーカスは順調に成長していく。
身長も伸び、体重も増えた。
寝返り、おすわり、ハイハイ──。
順調だった。
一歳を過ぎた頃。
伝い歩きを始めて一ヶ月後、自立して初めての一歩も達成した。
すべてが愛おしい。
カリナの胸には常に喜びで溢れていた。
教師たちはルーカスに最高の教育を施そうと、カリナと話し合いを数え切れないほどしていた。
ルーカスの負担にならない程度に形や色の認識、名前や簡単な動作、数など暇を見つけては遊びの一環として進められた。
「あぅ〜ぁ」
愛らしい声を聞く度に、心が喜びで締め付けられる。
(まだ一歳半よ。もう立ち上がって元気よく遊んでいるのだから何も心配することはないわよね)
そう思いながらも冷えた指先を手揉みする。
「ルーカス様は穏やかな性格なようで食べ物も好き嫌いなく召し上がるようですね。健康にはひじょうに良いことです」と医者はいつも繰り返した。
* * *
「カリナはやっぱり自分の名を呼ぶことを想像しているのかい? いや、もう呼ばれたのか?」
カリナは声がうまく出なかった。
指先が急に冷えた。
心の底の泥溜まりは考えるのを邪魔する。
一呼吸置いて、カリナは笑顔を形作った。
「ちゃんとした言葉はまだですわ。カリウス様も楽しみでしょうか?」
「“ちゃんとした言葉”はこれからか。それは楽しみだな」
穏やかに顔を綻ばせるカリウス。
カリナへ向く瞳の黒い瞳孔はルーカスと重なった。
ふとよぎる思いは気の所為だと心の中から追い出した。
ルーカスが二歳になる頃──。
王弟エリアスに第一子が生まれた。
王弟妃・リリアは銀色の御髪から王国の百合と称される。カリナたちとは四歳年下にあたる。
二年前のカリナと同じように出産の疲れと一子誕生の喜びに満ちていた。
生まれたばかりの女の子は、リリアに似て華やかな印象から“アメリア”と名付けられた。
カリナは誕生したばかりの愛らしい存在とルーカスの小さな仲間が出来たことに胸は大きく弾む。
アメリアの部屋は草花が芽吹くことを由来に芽吹きの部屋と呼ばれた。
カリナだけではなく、乳母や従者たちも手を焼き始めるルーカスは好奇心旺盛に庭園を駆け回る。
指さしは上達し、伝えたものと同じ形を指さすようになった。
その愛らしい存在に周りも笑顔が絶えない。
暇をみつけてはアメリアの様子を見にカリナとルーカスは部屋へと通った。
「あぃ〜ぉあぅ〜」
ルーカスはアメリアを指さしカリナに何かを説明する。
言葉にならない喃語ばかり増えていくルーカス。
二人の幼子のやりとりにカリナとリリアは笑い合った。
だんだんとカリナの心に芽生えた闇は自分だけのことではなくなり、王城のいろんなところにひっそりと芽吹き始めたのだった。
アメリアが寝返りをうち、おすわりもし始めた頃──。
ルーカスは駆けっこも上達し階段を一人で上り下りできるようになった。
だが言葉は一度も出ない。
医者や言語学者に相談すると
『頭の中の知識はコップに見立てられることがよくございます。コップの中身がいっぱいになり、溢れると自然と言葉をお使いになられます』とのこと。
言葉には出さないが、教師たちは文字や発音に力を入れ始めた。
ルーカスが喃語を話す度に空気が固まる。
小さな罅を作っているように感じた。
カリナはカリウスがいつも優しい言葉をかけ続てくれるので、その時ばかりは他のことを忘れたような感覚になった。
だが、アメリアの成長をみる度にルーカスと比較してしまう性格の悪さを心の中で罵る。
(ルーカスは言葉以外の部分は順調なのよ!)
最愛の息子がカリナを抱きしめるのに、熱い母親の心と押し寄せる黒い気持ちを確信していた。
すぐにそのカリナの心配は決定的なものとなり、心の堰は崩れることになる。
* * *
アメリアが一歳になる節目にルーカスのお披露目も兼ねて近隣諸国を招待した五カ国での国際行事を開くことになった。
カリナは笑顔の仮面の下で不安に満ちていた。
心の底は冬の池底のように冷たく濁っている。
ルーカスは言葉は出ないがこちらの言っていることは分かる。
相槌も指さしも出来る。
(なんとしてもこの行事を乗り越えなくてはならないわ)
カリナはカリウスと話していても、宰相や大臣と話しても上の空。侍女にも聞き返すばかり。
リリアは何かを感じ取ったのか、愛想笑い。
自分からアメリアをカリナの元へ連れてくることはなくなった。
ルーカスだけが大きな瞳をカリナへ向けて首を傾げている。
ある日の午後──。
ルーカスと庭園からの帰りの廊下でリリアとアメリアに遭遇した。
ルーカスとアメリアのために敷かれた柔らかい赤絨毯。
アメリアはよちよち歩きでカリナとルーカスに近づく。
リリアの慌てたような声はアメリアを呼ぶも虚しく廊下に響くだけだった。
「う〜ちゃ、んぁ〜」とアメリアは喃語でご挨拶。
可愛さに顔が緩んだカリナは腰を落としアメリアへ笑顔を向け、挨拶を返そうとした。
アメリアは突然リリアへ向き直すと、「ママ、ママ!」と呼んでいる。
指先が冷たくなる。
カリナの胸は焼けるように痛い。
「申し訳ありません!」
金切り声に近いような声のリリア。
でも、水の中に入ったように鈍く聞こえる。
息苦しさに目の前が霞んでいく。
何が起こったのだろう。
二歳も離れているアメリアが自分の母親を呼んでいる。
何も考えられない。
その後、どうしたのか覚えていない。
『ルーカスは三歳過ぎているのにママさえも呼んでもらえない』ことに胸がちぎられそうだった。
その夜、寝室ではなく王妃の間に逃げてきた。
そしてカリウスを入れないように侍女に頼んだ。
ルーカスの成長を素直に喜ぶどころか、他人と比較して、心の中でルーカスを非難してしまったたことに自分自身を心の中で罵った。
薄暗いひんやりとした部屋。
かちゃりと静かな金属音がしてドアが開く。
カリウスだった。
ルーカスが生まれて以来泣いたことはなかったのに、こんな形で涙をみられることになり、不甲斐なさにハンカチで顔を隠した。声に濁音が混ざる。
「カリウス様、申し訳ありませんが今夜だけはこの部屋に籠もることをお許しください!
……気持ちの整理がつかないのです」
「妻がこんなにも苦しんでいるのに知らないフリはできない……そばにいてもよいか?」
ハンカチに顔を埋めたカリナは小さく首を横に振った。
それでもそっと横に座ったカリウスはその大きな胸にカリナを優しく抱きしめる。
カリナの背中を触れるカリウスの手は震えていた。
自分だけではないと分かると次から次へと涙が溢れる。
「私はルカのことが大好きですの。何もできず腕に抱かれていたあの子が自分の足で立ち上がり、今では庭園を走り回っています」
「うん」
「この三年の時間は私にとってもかけがえのないものでした。母としてルカの成長に喜びを感じ、これからも楽しい将来を描きたい。そう思っているのに……」
「うん……」
「他の人と比べてはいけないことは分かっております。それでも“母”と呼ばれないことを……悲しいと思ってしまうのです。何がいけなかったのでしょう?」
「……」
「ルカがお腹にいる時、政務で忙しくしたのが行けなかったのでしょうか?
それをストレスに感じたことが原因だったのでしょうか?
それとも生まれる直前に引いた風邪がいけなかったのでしょうか?」
「……カリナ」
「何をすれば、ルカは話せるようになったのでしょうか?
私は何を壊してしまったのでしょう!?」
「カリナ、それは違う!」
初めて聞いたカリウスの荒げた声。
それでも堰き止めていた想いは決壊した。
言葉となり現実のものとして外に出ていってしまう。
溢れる涙だけでもハンカチで堰き止める。
それでも肩の震えは止まらない。
嗚咽は止まらず、震える手で顔をさらにハンカチに押し付ける。
「それならば私にもカリナの政務を代わってやれなかった責がある。
それにルカから言葉を出ないことを医者や言語学者に問い詰めた私も良い親とは言えないだろう」
涙で腫れた醜い顔にも気も留めずカリナはカリウスに顔をあげた。
同じ傷ついた目。
カリナだけではないと錯覚する。
その黒い気持ちを同じように背負ってくれると言ってくれている気がした。
* * *
その日を境に寝静まる時間になるとカリウスが寝室から消えるようになった。
カリウスの態度に変わった様子はなかった。
それでもカリナの意識が曖昧になり、夢と現実を行き来するふわふわした感覚になる頃、寝室を出ていくようになった。
ある晩、耐えきれなくなってその後を追ってみるとルーカスの部屋に消えていった。
ドアの外で待機する護衛騎士にカリナは口元に立てた人さし指を見せる。
護衛騎士二人は何も言わず小さくお辞儀した。
気配を消してカリナは部屋に入ると、「カリウス様」と掠れる声で呼んだ。
ベッド脇に座りルーカスの寝顔を覗き込んでいたカリウスはすぐさま腰を少し浮かせて警戒しながらこちらへ顔を向けた。
「……カリナか。起こしてしまったか?」
「いえ、最近変だなと思っていましたので、勝手についてきてしまいました」
「気を使わせてしまったようですまない。ただ、ルーカスとアメリアのお披露目パーティーがもうすぐだと思うと寝付けなくて」
カリナの心にじんわりと温かさが広がる。
「不安なのは自分だけではなかったようで安心しました」
弱々しくも本心から顔を緩ませるカリナ。
彼女の冷たい指先を大きくて温かい手が包む。
「どんなことがあっても私たちの素晴らしい息子だ」
(私が一番欲しかった言葉だったのね)
平然の装いは崩れた。
カリナは子どものようにカリウスの胸に縋って涙声をあげた。
* * *
五カ国での国際パーティー当日──。
三歳を過ぎたルーカスからはまだひと言も出ていない。
カリナは三時間も前から椅子に座り続け、侍女たちから支度を受ける。
大広間で昼食を取ったあと、歓談、オーケストラの演奏会、各国の催し物、ティーパーティーの軽食を挟んで夜まで行われる。
昼食前に軽い挨拶があるので、もうすぐ時間となる。
支度が終わり部屋で待機しているカリナは部屋の外の廊下が騒がしいので、そっと顔を出した。
大広間の方に伸びる廊下に小さく見える侍女と来賓・メルディア公国の宰相とお付きの者たちが話している。
『……気にしていないから、大丈夫だよ』
「誠に申し訳ございません、私めの粗相、どうかお許しください!」
通訳がいないのか『メルディン語』の宰相と「アルディナ語」の侍女は、お互い気を遣っているが伝わっていない様子。
カリナが廊下に足を踏み出そうとした。
目の前を風が吹く。
小さなルーカスが駆けていく。
父と同様に髪をかき上げる纏めた正装。
涙を溜めた侍女と困り顔のメルディアの宰相。
その間にルーカスが入った。
カリナは胸が飛び上がりそうになった。
メルディアの宰相に会釈したルーカスは侍女に向かって、人さし指で自分の両頬を突付いた。
目を大きくさせて意味を汲み取ろうとする侍女。
(“笑って”と言ってる……?)
カリナは期待を膨らませる。
ルーカスの口端は上がる。
侍女も笑う。するとメルディアの宰相は安堵の息をついた。
『小さな英雄どの、どうもありがとう』
ルーカスは小さくお辞儀をした。
カリナは驚愕して、動けなかった。
「もしかして……言葉が分かるの?」
* * *
カリナはカリウスに先程の出来事を話せないままだった。
大広間には人が集まってきて挨拶が始まった。
今もカリウスはサンクティアの国王と歓談中。
カリナが大広間を見渡すと先程のメルディアの宰相が見えた。
宰相の視線の先にはルーカス。
ルーカスの目の前で正式な挨拶。
片足を下げ片手を前に添えて膝を曲げて身体を下げる。
『アルディナの若き光にご挨拶申し上げます』
この挨拶、下位の者は膝を付く挨拶方式。
この場では、ルーカスが下位の挨拶をする運び。
(もし間違っても幼き王子の挨拶は寛容に見てもらえるはず……)
いつの間にか握りしめていた手が汗ばんでいたことにカリナは気がついた。
ルーカスは宰相と視線を交わすと片手を前に添えて小さな足の膝をついた。
これには教師たちも息を飲んだ。
事前に教えられていた。
ルーカスはちゃんと理解していたのだ。
『メルディアの文化を尊重いただき光栄に存じます』と宰相は微笑んだ。
カリナは夢をみているようだった。
その温かさは内側だけでなく外側からも包まれた。
カリウスだった。
カリナの肩を優しく抱きしめる。
こちらに振り返ったルーカスはカリナを見つけると顔を綻ばせて走ってきた。
カリナは胸から溢れるものを必死に我慢していた。
(ルーカスを抱きしめたい)
ルーカスはカリナの広げようとした手を小さな手で握って瞳を覗き込んだ。
「かあ……さま、……かあさま」
頭が真っ白になった。
景色も周りの音も何も聞こえなくなった。
感覚がカリナを支配する。
強い衝撃だった。
何があったのか理解するのに時間がかかった。
肺が苦しそうに空気を求めて軋んだ。
空気を吸い込むと共にようやく思考が戻ってきた。
(初めて呼ばれた……)
「ルーカス……」
膝から崩れたカリナはルーカスを抱きしめた。
カリナの腕に身体が埋もれたままルーカスはカリウスのほうを向く。
「と……うさま、とうさま」
カリウスの喉から苦しそうな短い声が漏れた。
その後カリナはカリウスの大きな腕に包まれた。
カリウスは時折苦しそうに息をしながら腕を震わせている。
「ルーカス……」
ルーカスの頭の中のコップから溢れた瞬間だった。
* * *
それから──。
アルディナの王城では、水面下の闘いが行われていた。
カリナの最大のライバルはカリウス。
まさかカリウスを相手に競うことになるとは思わなかった。
あの日から日を追うごとに言葉が増えていくルーカス。
あの日はカリナの方が早かく名を呼ばれた。
しかし、すぐにカリウスもルーカスに名を呼ばれたので引き分けだった。
次なる闘いは“大好き”という言葉。
果たしてどちらが先に言ってもらえるか。
二人とも好きな絵本や食べ物を与えては「大好き?」と聞く。
「だいしゅき」
ついに息子の口から“大好き”が溢れた。
(やったわ! “母さま、大好き”までもう一歩)
「くるま、好き?」
「しゅき」
カリナは相好を崩す。
「じゃあ、ママは好き?」
「……」
「母さまは好き?」
「かあさま!」
「はい!」
カリナが元気よく返事すると、侍女から微笑ましく声が漏れる。
今でもカリナは名を呼ばれて舞い上がってしまう。
(癒されている場合じゃないわ)
「“かあさま、すき”、言える?」
「かあさま……き!」
カリナは子どもじみたことをしていると心を痛めるほどわかっていた。
それでも止められない。
「じゃ、じゃあ“かあさま、だいすき”、言える?」
「かあさま!」
「はい! ってそうじゃないの。あっルーカス待って!」
ルーカスは無邪気に走り出した。
最近は毎晩寝室でカリウスと探り合いをしている。
「カリナ、今日、(ルーカスは)何を話していたんだい?」
「大好き、と」
「え?」
「くるまのおもちゃが大好きだそうです」
“大好き”に反応するカリウス。
少年のように澄んだ瞳。笑いが溢れる。
(ちょっと意地悪すぎたかしら?)
目を細めたカリウスは不満そうにみえる。
カリナは冗談交じりにルーカスのことを話せるこの時間が大好きだった。
カリナは思わずカリウスの腕にしがみつく。
今日も二人の寝室には笑い声が響いた。
* * *
しばらくして──。
カリナは迷っていた。
言うべきか言わないべきか……。
その日はルーカスと三人でピクニックへ出かけていた。
追いかけっこをしていたルーカスはカリウスを捕まえて「とうさま、つかまえた!」と元気に声を上げると、カリウスは高く抱き上げた。
「とうさま、だいすき」
カリウスの腕が緩んだ。
バランスを崩すルーカス。
護衛騎士たちは駆け出した。
なんとか持ちこたえるカリウス。
ルーカスは身を固くしたままカリナに両手を差し出した。
「かあさま」
ルーカスはカリナに抱っこを強要する。
落っことされそうになったのが余程怖かったようだ。
カリウスの目は一切見ず、カリナに手を伸ばし続ける。
カリナは笑いを堪えながらルーカスを抱き上げた。
(あんなに嬉しそうなカリウスの顔を見たら、昨日『かあさま、だいすき!』って言われたなんて言えないわね)
カリナは目端で初めて見るカリウスの狼狽えた顔に顔を大きく緩めた。
* * *
二年後──。
今日はルーカスが五歳になった。
アルディナでは生まれてから五歳になるまでは神の元にいると扱われる。そしてそれ以降は正式に王室と認められる昇顕の儀を行う。
前髪をかき上げて纏められたルーカスは王族の紋章の正装に儀式用のマントを付けている。
かかとにつきそうなほど長いマント姿のルーカスに微笑みながら抱きしめる。
「父様と母様はあちらでお待ちしていますからね」
「ルーカス、愛している」
横からやってきた精悍な顔立ちのカリウスは真剣な顔でルーカスに伝える。
(こんなところで言うなんてずるいわ)
カリナは頬を膨らませたが、負けじとルーカスに愛を伝える。
「ルーカス、愛しているわ」
「ふふっ、父様も母様も負けず嫌いですね。私も父様と母様のこと、愛しています」
誰よりも大人に振る舞ったルーカスは一息つく。
紅の絨毯は神殿の中央へと続いている。
鷹揚に歩き始める。
人々の視線はルーカスに集まった。
実は国際パーティーでの初めての言葉からすぐにメルディン語、サンクティオン語も片言でこぼし始めた。
ルーカスの“言葉を入れるコップ”は大きかったのだろうと皆は結論づけた。
五歳になった現在は五か国語を話す。
歴代でも稀に見る才能に神童と呼ばれた。
神殿の大聖堂でカリウスの戴冠式よりも小ぶりの王冠がルーカスの頭に載せられる。
ルーカスの祝詞は異例のアルディナ共用語、メルディン語、サンクティオン語、カルヴェナス聖語、ノクティオン連邦共通語──五カ国語で行われた。
言霊に乗って、淡い光の玉がいくつも宙を舞う。
(あ……こんな晴れ舞台なのに私、また涙が滲んでいるのね)
ぼんやりとみえる幻想的な景色の中にいるルーカスはいつもよりずっと大きくみえる。
神殿の外は光あふれる世界。
国民が旗を振り、歓声を上げる。
色とりどりの無数の花弁が、この先の明るい未来へと向かって、優雅に舞っていった。
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