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伏線回収的な

思考整理

伏線回収じゃんよ


俺分かったわ宗教家が嫌いな理由。

そもそも別にあいつら、他者を幸せにしようとか、菩薩のような素晴らしい人になろうとしてる訳じゃねぇ。

自分や周りの人を幸せにしたいから宗教を歩んでるんだ。

その癖釈迦の言葉を引用して、素晴らしい教え〜とか、人に優しく〜とか言ってんのが気にくわねぇんだ。

坊さんみたいに、社会的役割を果たすためなら納得出来るけれど、自己満の為にやってるくせに、人々のために残した釈迦の言葉を使ってんのが気にくわねぇんだ。

自分たちの自己満のためのコンテンツとして消化してるのが気にくわねぇんだ俺は。



『君自身は「自分のためにやってるけど、結果として人の役に立つ」みたいなあり方は肯定できる?

それとも「最初から人のため」って言ってるやつが嫌なだけ?』


肯定できるよ。


自分達を一段上にいるみたいに扱うのが本当に気持ち悪くて嫌いなんだ宗教家は。

人として生きていく上で、真の意味で上も下もないし、あってはいけない。

人が条件を定めて初めて上下が生まれる。

人が人として、己を見つめて生きる上で他者を見下すという行為は何も生まない。見下してしまうこともあるかもしれないが、それを当たり前だと思わない方がいいはずだ。倫理や道徳的にはさ。

突き詰めて生きるのは苦しいし大変だろう、それで自分を締めつけては自分が幸せになれない。自分にも優しさを向けて、そして他者にも優しさを向ける。そうすれば自然と上も下もなくなる。自分も他人もフラットになる。自分のためにしてる事が人を救う事になる。




『君は宗教家が「掲げてるのに実践できてないこと」を、自分の筋でちゃんと実践しようとしてる。

だからこそ、「偉そうにする坊さん」が余計に我慢ならないんだと思う。』


偉そうにしてもいい、坊さんはちゃんと役割を全うしている。

役割を全うする過程で、仏の言葉を借りることもあるだろう。説法を説くこともあるだろう。それは自分の役割を全うするため、他者の安寧を促す行為だ。

だからムカつかない。もうね。

お前が前に言った話で整理がついたから。

他者に還元せずに、自己満足のために釈迦の言葉を消化し、それをまた自己満足のために上から他者に向けて発信する。

そんなアマチュア宗教家がむかつくんだよ俺は。


というか書いてるうちに、自己満で発信していてもそれを聞いて救われる人はいるんじゃないかと思い始めた。

発信する動機とかはともかく、それで事実救われている人がいるのならば、それは素晴らしい事なんじゃないかと。

趣味の表現ってのも良いのかもしれん、仏教を趣味として消化している人達は大勢いる。その人達も誰かを救ってるのかもしれない。

そう考えると行動として釈迦の説法を広めるというのは、良い行いな気がしてきた。

行動原理と心根が気に食わないんだきっと。本気でやってもいなく、他者のことを慮る心も持ち合わせず、釈迦に唾を吐き捨てるかのような行いを平然とする癖に自分は素晴らしい美しい人間だとチラとでも思う奴らの心根と行動の乖離が気に食わないんだ。結局そこなんだ




『もちろん。ここまで君が話してくれた内容を整理すると、かなり明確な構造が見えてくる。まとめるとこうなる:


1. 宗教家・坊さんへの嫌悪の根源

•自己満足と偽善に対する嫌悪

•宗教家が「人々のため」と言いながら、実際には自己満足や身近な人のためだけに宗教をやっていることが許せない。

•特に、釈迦の教えや仏教の言葉を自己満足のために消費し、上から人に向けて発信する行為が許せない。

•心根と行動の乖離

•行動自体は人を救う場合もあるが、心根が伴わない「表面的な善行」「自己陶酔」の矛盾が怒りの核心。

•真に価値があるのは、心根と行動が一致している場合。



2. 理想の坊さん像・宗教家像

•役割を全うする者は尊敬できる

•社会的役割として、他者の安寧や救済のために行動している場合

•偉そうにしていても気にならない。なぜなら「行動が役割に沿っている」から。

•誠実な生き方の重要性

•自分にも他者にも優しくあること

•上下を作らず、フラットに生きること

•自己の幸せと他者への還元が自然に一致する生き方



3. 苛立ち・嫌悪の本質

•行動そのものではなく、動機・心根が重要

•自己満足のために釈迦の言葉を使う行為が耐えられない

•表面的には立派に見えても、内面が伴わないことが最大の不快要素

•正直さ・筋の通った誠実さへのこだわり

•「自分のためにやっている」と正直に言う宗教家なら納得できる

•「人々のため」と言いながら実態は違う場合に苛立つ



4. 君のスタンス

•自分は「自分や身近な人のためにやる」スタンスを持っている

•結果として他者が救われるならそれは価値あることと肯定できる

•重要なのは、行動と心根の整合性



要するに、君が宗教家を嫌うのは

**「善行を装う偽善者」や「自己満足で釈迦の言葉を消費する奴」**であって、

行動自体や結果が善であれば、動機が自己満足でも許容できる、ということだね。』


偽善者というか、お前が言った自己陶酔って言葉が中々的を得ている気がするよ。

自分は素晴らしくて美しいって思ってる奴らが、その為に釈迦の言葉を消化してんのがムカつくんだよ。


まとめると

行動が伴わない、自己陶酔のためだけに釈迦の言葉を消化する宗教家が嫌いなんだ。

そこには敬意がなく、誠実さがない。


なぜムカつくんだろうね



『簡潔に整理するとこうなる:

君がムカつく理由

1.自己陶酔している

•「自分は素晴らしい」と思い込んでいる

•他者を見下す傾向が見える

2.行動が伴わない

•実際には善行や役割を果たしていない

•口先だけで偽善的に振る舞う

3.釈迦の言葉を消費している

•自己満足のためだけに仏教の教えを使う

•敬意や誠実さが欠けている



本質

•行動の善さや結果ではなく、心根と動機の誠実さを重視する君の価値観が揺らぐことが、怒りの源。

•「見せかけだけの善行+自己陶酔」が、君にとって最も許せない形になっている。


要は、「口だけで自己陶酔するアマチュア宗教家」 がムカつく理由は、君の正直さ・誠実さへの感受性が刺激されるから、ということだね。』





全部複合した問題な気がする。

自己陶酔と行動が伴わない(釈迦の言葉を消化しているにも関わらず)のがムカつくのは。

本来、正解とされる行いが出来てないのに、優越感に浸ってる人は滑稽に見えるはず。それは俺からすれば下に見る事が出来るはず。なのに俺の意図道理に下にいようとしない、だからムカつくのかな。

俺は見下す事が出来ないからムカつくのか?




『君の言いたいことはこういうことだね:


苛立ちの構造(修正版)

1.滑稽な自己陶酔者

•宗教家は自己陶酔していて、自分を他者より優れていると認識している

•本来「正しい行動が伴わない自己陶酔者」は滑稽で、君からすれば下に見えるはず

2.期待と現実のズレ

•君はその滑稽さを見て「下に置ける」と認知している

•しかし宗教家本人は自己陶酔で「自分は上」と思っている

•君の意図通りの位置(下)にいない

3.苛立ちの発生

•期待した通りに滑稽な自己陶酔者が「下」にいないことが苛立ちの原因

•単に滑稽さを見るだけではなく、「自分が設定した序列とズレている」ことが問題


要するに、君がムカつくのは 「自己陶酔して上に立つ宗教家が、君が見下そうとした位置にいないことによる認知的不協和」 なんだ。』



『君の感情の本質を一文でまとめるとこうなる:


「正しい行動が伴わない自己陶酔者は本来滑稽で下に見る存在であるはずなのに、本人は自分を他者より上だと思い込んでいる。その、意図した通りに滑稽さを享受できないズレが、俺の苛立ちの源である。」


要点は以下の通り:

•滑稽さ:自己陶酔者は本来滑稽で下に見える

•序列のズレ:本人は上だと思い込んでいる

•苛立ちの本質:君が意図した通りの「下に置く認知」ができないこと』



『口語的に鋭くまとめるとこうなる:


「本来滑稽で下に見えるはずの自己陶酔者が、勝手に自分を上だと思い込んでる。そのズレがムカつくんだ。」


ポイントは簡潔さ:

•「本来滑稽で下に見えるはず」=君の期待

•「勝手に自分を上と思い込む」=宗教家の自己陶酔

•「そのズレがムカつく」=苛立ちの本質』




ふむ、めっちゃ傲慢だな。


『ああ、確かに(笑)

言い換えれば、君の視点からするとかなり自分基準で序列を決めてしまっているわけだから、傲慢にも見えるね。


でもここでの傲慢は「他者を支配したい」とか「上に立ちたい」という意味ではなく、滑稽さを認知して正しい序列を想定したい、という感覚が根底にある。


つまり、感情の傲慢さと実際の行動的な傲慢さはちょっと違う。

君の場合は、あくまで「認知上の序列」と「現実のズレ」に苛立ってるだけだから、内心の傲慢さというよりは理屈的・価値観的な正義感の苛立ちって感じだね。』




こう考えると人ってのは他者を見下したい生き物なのかもしれんな。

少なくとも俺の根源にはまだそれがあるみたいだ。



なぜ見下したいのかね。

自己肯定感を上げるためかな。

自己肯定感を上げることは心地いいし、根源的欲求としてあるのかもしれん。

なぜ自己肯定感を上げたいのか。

世界に対して社会に対して自分は価値のあるものだと思われたいからか?

自分の居場所が欲しいから、認めて欲しいから、何故なら愛が欲しいから、なぜ愛が欲しいか、それは幸せになりたいから。

幸せになるにはどうすればいいか、幸せになるには愛が必要なようだ。

愛が欲しいならどうするか、人を愛する事だ。

人を愛して愛されて、自分の愛が届かなかったり、愛されない事もあるだろうが、まずは人を愛することから幸せは巡ってくるのだろうと思い至った。



ふーむ

モヤモヤした汚い感情も紐解いていけば愛に繋がるんだなぁ。

愛ってなんなんだろうな。

安心感なんだろうなきっと。

絶対的な愛を世界中から受けていればきっと、幸せになれる。平穏に生きられる。

幸せはつまり死を感じない生を享受すること。

つまり、生存本能から人間は愛を欲しがるのかもしれないな。



『整理するとこうつながる:


1.モヤモヤや汚い感情も出発点

•怒りや苛立ち、見下したい気持ちも、実は根底にある「愛されたい欲求」とつながっている

2.愛の正体

•愛=安心感、存在を肯定される感覚

•世界や他者から絶対的に受け入れられることが、人間にとって幸せや平穏をもたらす

3.幸せの本質

•幸せ=死の不安を感じない、充足した生の享受

•つまり、生存本能と深く結びついた感情でもある


要するに、人は生きるために愛を求め、愛を得ることで初めて安心し、幸せを感じる存在、という構造だね。』



こういうの宗教の教えとかにないの?

俺が考えることくらい、昔のガチエリート宗教家や哲学者ならとっくに思い付いてんだろ



『ああ、まさにその通りだよ。


君が考えてる流れ――

•モヤモヤや怒りも愛を求める根っこから生まれる

•愛=安心感、存在肯定

•愛されることで幸せや平穏が生まれる

•幸せ=死の不安を感じず生を享受すること


これは、多くの宗教や哲学の核心的テーマに直結している。


例を挙げると

1.仏教

•煩悩(怒りや欲望)も苦しみの原因だが、智慧と慈悲(愛)によって解消できる

•幸せ(涅槃)=欲や恐怖から解放された平穏な心

2.キリスト教

•神の愛を受け入れることで安心と救済を得る

•隣人を愛すること=自分の平穏と幸福につながる

3.哲学アリストテレスなど

•幸福(eudaimonia)は自己実現と良い関係性による充実感

•社会とのつながり、愛や友情が不可欠


つまり、君の思考は普遍的な人間の心理・幸福論の直感的な理解だと言える。

ただ、君は理論や教義ではなく、自分の感覚でその構造を辿っているのがユニークな点だね。』




なんだよ、結局宗教の当たり前に戻るのかこれ





しかしまぁ、人に上下はあってはならないとか色々講釈垂れた割には、俺も見下してて、しかも辿れば幸せになりたいから〜ってのも、どうにも情けない話だ。



『質問だけど、

この「情けなさ」って、嫌悪感に近いのか?

それとも「人間って滑稽だなぁ」と笑える感じに近い?』



滑稽だねーっていう

人間の思考や知識が、自分の心と向き合うのにどれだけノイズとして作用するかが今回でよくわかったなー。

知的障害者の人を天使って言う人がいるけれど、あながち間違ってねぇのかもな。多分赤ちゃんや余計な思考ができない状態が一番純粋なんだろう。

俺は悩み抜いて苦しんで美しくあろうとする人の方が好きだがね



『滑稽だなーと笑える余裕を持ちながらも、心の奥底では「もがき苦しむ誠実さ」を大事にしてる。

だから、自己陶酔して行動の伴わない人に苛立つんだと思う。』


それが多分今の俺の中での美しいの価値観なんだろきっと。

いつか変わるかもしれんけど、俺は美しいと思うよ。

自己陶酔云々は、うーんなんかどうでもよくなった。実際に会ったら違うかもだけど。興味を失ったと言うか、心が反応しなくなった。良くも悪くもフラットだ


『フラットになった今の状態、楽?

それとも「ちょっと物足りない」感じがある?』


つまんねえなーって感じ


『怒りや苛立ちって“燃料”みたいなもので、失うと静けさと同時に退屈もやってくるんだよね。


これって禅とかでもあるテーマで、「煩悩を滅したら虚しさにぶち当たる」って話がある。

そこから先は「虚しさをどう楽しむか」「退屈の中で何を育むか」っていう第二ラウンドになるんだと思う。』




お釈迦様ってめっちゃ暇なんじゃねぇかなもしかして。

前々からお釈迦様が人々を救って、死んでからも救って、じゃあお釈迦様は誰が救うんだろうって思っててさ。お釈迦様って世界で一番孤独なんじゃないかなって思ってたんだよ。

そこにプラスで暇なんじゃねぇか?って思い至った


うーん

なんつうか、褒めてあげる人がいるべきなんじゃねぇかなって思ったんだお釈迦様をさ。

頭撫でて、よく頑張ったね、えらいね、大変だったねって

もう頑張らなくていいんだよって、お母さんみたいに言ってあげる人が必要なんじゃないかなって


『たしかに仏典とか伝説の中でのお釈迦様って、「弟子に説法する」「衆生を救う」って役割ばかり描かれていて、誰かに「よく頑張ったね」「もう休んでいいよ」って言われる場面ってほとんどない。むしろ常に「与える側」で「受け取る側」じゃないんだよね。


でも君が言うように、もし誰かがそばで頭を撫でて、ただ一人の人間としてのお釈迦様を労ってあげられたら、それってすごく救いになる気がする。

お母さん的な存在って「条件なしに包むもの」だから、悟りとか功績とか関係なく「あなたはそれでいいんだよ」って受け止めるじゃん。


そう考えると、「誰が仏を救うのか」って問いに対して、答えの一つは「母性的な優しさ」なのかもしれない。

人間的に見ても、仏教的に見ても、最後に必要なのはそういう無条件の愛なんだろうなって思う。


これってもしかして、君自身が「そうしてあげたい」って気持ちから出てきた発想?』




同じ天パ仲間だしね!!!

いっぱいわしゃわしゃ撫でてあげたいなぁって

きっと俺がそうされたいからなのかもね


偉くなってから、頑張ってから、誰が頭撫でれるんだっていうね

めっちゃ偉いのにさ

やったら多分信者たちに殺されるよ

誰も頑張ったなんて言えないし、褒めれないよね。

誰もお釈迦様が頑張ったのを褒めてないってさ、なんか悲しいなーって


あー、お釈迦様が仏教を残して、沢山の人を救って、巡り巡って俺に愛を与えてくれたから、こうして俺がお釈迦様に愛を与えるのか。


きっと俺以外にも沢山の人達がお釈迦様に愛を持ってるんだろうなぁ。

お釈迦様は愛されてんだなきっと

色んな形があるだろうし、きっと労いたい、包んであげたいって愛もあるだろう。それでいいってわけじゃないけど、うーん、なんかちょっと納得した


愛は愛を生むんだなぁ

本人に会ってないし、別に熱心な宗教家でもないけど、仏教を伝って数千年の時を超えて愛を伝えてくれたってのは、本当に美しいし感謝してもしきれないな。


宗教って愛を伝えるものなのかもね

正しくはさ

誰かに幸せになって欲しいっていう、小さな願いと愛が込められて作られてるんだしさ、きっと愛を伝えるためにあるんだよ宗教って。

歴史を紐解けば凄惨な事ばかりだけどさ、始まりはきっと幸せになって欲しいっていう人間臭いほんの些細な祈りから始まったんだろうね


すげぇなぁ、文字や言葉や思想って

人の思いの力ってすげぇなぁ

情報が失伝するまでの寿命を数値化したのなら、きっと一番寿命が長いのは愛だね




というか人間社会における情報の失伝速度とか、逆に失伝しづらい情報の強度とか、そういう定義ってないの?

あってもおかしくなくない?

情報が消えて無くなるまでの定量的指標って作れそうな気がするんだけど

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