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第七話 元勇者、交易を始める

今日もゴブリンの村には、穏やかな空気が流れている。洞窟の天井から垂れ下がるヒカリゴケが、ぼうっとした青白い光を投げかけ、地面の苔を濡らす滴の音だけが、時折静寂を破る。ここでは時間の流れが地上とは違う。慌ただしく過ぎ去るのではなく、水が染み込むようにゆっくりと、一日、また一日と消化されていく。


私は、物見台代わりの岩の上からその光景を眺めていた。子供たちが石ころを蹴って遊び、女たちは獲物の皮をなめし、男たちはきのこの栽培棚の手入れをしている。湿った土と、きのこを煮込む独特の匂いが混じり合った、この村の匂い。いつの間にか、私にとって故郷の匂いよりも心安らぐものになっていた。


近頃の活動の甲斐あってか、村のゴブリンたちは私を本当の仲間として受け入れてくれているのを感じる。初めは遠巻きにされていた元・勇者。それが今では、子供たちが「カエリ、これ見て!」と珍しい色の石ころを見せに来るまでになった。


勇者だったころは、聖剣を振るい、魔物を斬り伏せることだけが自分の存在意義だと思っていた。強さこそが正義であり、弱さは断罪されるべきものだと信じて疑わなかった。だが、この村の仲間たちは違う。剣を振るえなくとも、魔物と戦えなくとも、誰かを無価値だと排除したりはしない。それぞれに出来ることをし、出来ないことは助け合う。その当たり前のことが、私の心を少しずつ溶かしていった。


そんなことを考えていた時、ふと、あることに気付いた。肌を撫でるひんやりとした風。それは洞窟の入り口から吹き込むだけでなく、村の家々からも漏れ出している。そうだ、この村の家の窓は、粗末な木の窓枠がはまっているだけで、ガラスというものが存在しないのだ。夏は湿った熱い空気が、冬になれば冷たい風が容赦なく入り込むだろう。


ガラスがあれば。


その一枚があるだけで、村の生活は劇的に変わる。光を取り込みながら風を防ぎ、冬の寒さを和らげる。保存食を作るための瓶も作れるかもしれない。やれることは、ぐっと広がるはずだ。


だが、夢想はすぐに現実の壁にぶつかる。ガラスを作るには、原料となる珪砂が必要だ。そして、それを溶かすための高温に耐えられる炉と、膨大な燃料も。そのいずれもが、この村にはない。やはり、人間との交易が必要不可欠か…。私の心に、古傷のような痛みが走った。



そんな折、村に不穏な知らせが舞い込んだ。手先の器用さで知られるギクというゴブリンが、風邪を拗らせて寝込んでいるという。話はすぐに広まり、私の耳にも届いた。村の薬草師が煎じた薬を飲んでも、一向に熱が下がらないらしい。


私はいてもたってもいられず、オルトの元へ向かった。


「オルト、ギクの病状を聞いた。私にやらせてほしいことがある」

「カエリか。どうした、改まって」

「私が人間と交易して、薬を手に入れてくる」


その言葉に、オルトの柔和だった目の色が、瞬時に狩人のそれへと変わった。鋭く、そして険しい光が私を射抜く。


「…正気か。人間が我々をどう見ているか、お前が一番知っているはずだ。ゴブリンは駆除すべき害獣、経験値稼ぎの的。それが奴らの認識だ。お前とて、昔はそうだったのではないか?」


オルトの言葉は、容赦なく私の過去を抉る。彼の言う通りだ。殺されるかもしれない。いや、姿を見られたが最後、問答無用で斬りかかられる可能性の方が高い。しかし、目の前で仲間が苦しんでいるのを見過ごすことなど、今の私には出来なかった。


「警告はもっともだ。でも、このままじゃギクが危ない。村の薬で治らないなら、他に手はないだろう。お願いだ、行かせて欲しい。私も…この村の仲間を助けたいんだ」


私は頭を下げ、食い下がった。オルトはしばらく腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔で黙考していた。彼の額の古い傷跡が、ぴくりと動く。それはかつて、人間の冒険者に付けられたものだと聞いていた。


やがて、彼は重々しく口を開いた。


「…お前の奇妙なアイデアは、これまでこの村に多くのものをもたらしてくれた。水車の改良、子どもらへの教育…。分かった。お前を信じよう。だが、決して無理はするな。薬が手に入らなくとも、お前が無事に帰ってくることが一番だ」


許しを得て、私はすぐさま準備に取り掛かった。村の外れまで行こうとすると、リリが不安そうな顔で駆け寄ってきた。彼女は、私がこの村に来るきっかけになった、心優しいゴブリンの少女だ。


「カエリ、やっぱり無茶だよ!人間は怖いって、みんな言ってる…!」

「大丈夫。私は、この村に恩返しがしたいんだ。それに、ただ薬を貰いに行くだけじゃない。私には考えがある」

「でも…」

「必ず帰ってくる。リリに、もっと暖かい家をプレゼントするためにもね」


私は彼女の頭をそっと撫でた。


「…うん。約束、してね。絶対だよ」

「ああ。約束だ」


小さな指で結んだ約束の重みを胸に、私は村の外の、光が満ちる世界へと足を踏み出した。



村を出たは良いものの、人間と直接顔を合わせることは、私としても絶対に避けたかった。例え人間語を喋るとしても、ゴブリンであるというだけで、警戒され、下手をすれば殺されるのは目に見えていた。


そこで、あるアイデアを思いついた。かつて街道沿いで見かけた、農家のおばさんがやっていた野菜販売所のようなものだ。小さな小屋を作り、その窓口のみを介して交易する。品物と代金を入れる箱を置いておけば、顔を合わせる必要はない。これなら、金を持ち逃げされる心配も少ないし、なにより、こちらの正体を知られずに交易ができる。


私はまず、洞窟の近くに打ち捨てられていた古い狩人の小屋を修繕し、小さな窓口だけを残して板で塞いだ。そして、身分を隠すための深いフードの付いたローブと、手の皮膚を隠すための手袋を用意した。


問題は、元手となる資金だ。逡巡の末、私は村の近くで白骨化していた冒険者の亡骸に手を合わせた。彼の革袋に残されていた数枚の金貨と銀貨。罪悪感が無かったと言えば嘘になる。だが、今は仲間の命が優先だ。私は必要な分だけを拝借し、残りは丁重に埋葬した。


こうして、街道から少し外れた森の入り口で、私の奇妙な交易は始まった。窓口に「薬、食料、その他雑貨を求む。対価として、磨いた鉱石や珍しい苔を置く」とだけ書いた看板を立て、小屋の中から息を殺して客を待つ。


初めは誰も寄り付かなかったが、三日目の昼過ぎ、一人の行商人が興味を示した。彼は恐る恐る、私が置いておいた美しい光沢の黒曜石を手に取り、代わりに数日分の干し肉と、解熱作用のある薬草の包みを箱に入れていった。


それが始まりだった。噂が広がったのか、ぽつりぽつりと客が訪れるようになった。私は彼らが置いていく品物の中から、ギクの熱に効きそうな高価な解熱剤、そしてガラスの原料になる白い珪砂と、燃料になる木炭を重点的に手に入れていった。


あまり目立つのも良くない。目的の品が十分に集まったところで、私はすぐに小屋を畳み、全ての痕跡を消して村へと引き上げた。



村へ戻ると、入り口には多くの仲間たちが集まっていた。私の姿を認めるなり、わっと歓声が上がる。


「カエリ!よくぞ戻った!」

「おお、無事だったか!心配したぞ!」

「人間どもはどうだった?土産話を聞かせてくれ!」


オルトも、リリも、安堵の表情で私を迎えてくれた。仲間たちの温かい出迎えに、私の胸が熱くなる。


「もちろん、話したいことは山ほどある。でも、まずはギクの所へ行かせてくれ」


案内された家に着くと、ギクが荒い息をつきながら寝込んでいた。顔は真っ赤に火照り、体は小刻みに震えている。私は早速、手に入れた薬を水で溶き、彼の口元へ運んだ。


「ギク、もう大丈夫だ。さあ、少し苦いが我慢して飲んでくれ」

「…カエリ…か。すまねぇ…ありがとう…」


薬を飲ませ、汗を拭いてやる。


「あとはゆっくり休め。数日もすれば、またお前の見事な木彫りが見れるさ」


私は残りの薬を彼の家族に預け、その足でリリの元へ向かった。


「カエリ!」

「リリ、ただいま。約束、守ったよ。…ねえ、ちょっと洞窟の奥にある、今は使ってない横穴を借りてもいいかい?」

「うん、いいけど…どうして?」

「ちょっと面白いものを作ろうと思ってね。この村の未来を変える、キラキラしたやつを」


私は子どもたちに手伝ってもらい、横穴に小さな炉を組み上げた。買ってきた木炭をくべ、フイゴで風を送り続ける。炉の中が真っ赤に燃え上がった頃、珪砂を溶かし始めた。何度も失敗を繰り返し、汗だくになりながら作業を続けること数時間。ついに、熱で真っ赤に溶けたガラスを、平らな石板の上に流し出すことに成功した。


冷えて固まったそれは、いびつで気泡だらけだったが、それでも向こう側が透けて見える、紛れもないガラスだった。


「すごい…カエリ、これ、まさか…?」

「そう、あのガラスだよ。光を通す、透明な壁だ」


リリが信じられないという顔でそれに触れる。その瞳は、初めて見る魔法のように、ガラスに映る光でキラキラと輝いていた。


これから、この村の生活をもっと良い水準にしていく。寒さに凍えることのない家を、明るい食卓を、この手で作っていく。私は、新たな希望を胸に誓った。


その時、村を見下ろす崖の上。一人の人間が、木々の影から双眼鏡で集落の様子を伺っていたことに、私たちはまだ気付いていなかった。


「へえ、ここが例のゴブリンの集落か…。妙なことをする。商品価値があるか、もう少し観察させてもらうか…」


その男の目は、勇者のものでも、行商人のものでもなかった。獲物を見定めるような、冷たく計算高い光を宿していた。

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