第五話 元勇者、製鉄を始める
ゴブリンとしての生活にも、すっかり慣れてきた。勇者だった頃の記憶は、時折、夢の残滓のように心をよぎるが、それも朝靄と共に森の空気へ溶けていく。
その日も、平穏な一日だった。若いゴブリンのミツが、森で拾ってきた硬い木の実の殻を、愛用の石のナイフで割ろうと四苦八苦していた。何度も刃を立てるが、つるりと滑ってしまい、ついには「パキン」と乾いた音を立てて、ナイフの先端が大きく欠けてしまった。しょんぼりと肩を落とすミツの姿に、私は自分がまだ人間だった頃、鍛冶屋が手入れしてくれた愛剣の滑らかな鋼の輝きを思い出していた。鉄の道具がいかに便利で、頑丈であったか。それが当たり前だった、かつての争いに満ちた世界と、石と木で工夫を凝らし、平和なこの世界。どちらが豊かなどとは、今の私には到底言えなかった。
転機が訪れたのは、それから数日後のことだ。洞窟の奥で新たな水脈を探していた私たちは、崩れた壁の向こうに、広大な空間が広がっているのを発見した。ヒカリゴケの灯りで照らし出すと、そこに広がっていたのは、忘れ去られた「鉄の墓場」だった。錆びつき、原型を留めないほどに朽ちた剣。ひしゃげた鎧。無数の矢じりや、壊れた罠の残骸。それらが、まるで巨大な獣の骸のように、小山となって静かに横たわっていた。
若いゴブリンたちは、鉄の放つ独特の匂いと、死の気配に気味悪がって後ずさる。だが、私の目には、それが眠れる「宝の山」に映っていた。
「これを、溶かして新しい道具を作るんだ」
集落に錆びた鉄を持ち帰り、私がそう提案すると、オルトは厳しい顔で首を横に振った。
「鉄は争いを呼ぶ。その刃が、かつて我らの仲間からどれほどの血を奪ったか、お前は知らんだろう。我らは石と木で生きてきた。それで十分だ」
彼の言葉には、過去の痛みに裏打ちされた、否定しがたい重みがあった。
私は、足元に置いた錆びた剣を拾い上げた。
「確かに、この剣は命を奪うために作られた。そして、俺もまた、かつては勇者として剣を振るい、命を奪った。罪があるのは、これを使った人間や、俺自身だ。鉄そのものではない」
私は、集落の仲間たちの顔を見回した。
「俺はもう、この鉄で誰も殺さない。代わりに、仲間たちの腹を満たすための鍋を、畑を豊かにするための鍬を作りたいんだ」
その言葉に、話を聞いていたオークの一人が、低い声で「丈夫な斧があれば、もっと良い薪が手に入る。石斧では硬い木を切るのに三日かかるが、鉄の斧なら一日で済むだろう。残りの二日、我々は家族と過ごせる」と呟いた。
その言葉が決め手となった。オルトは、深く長い溜息をつくと、「……よかろう。だが、忘れるな。武器は、絶対に作るな」と、厳しい条件下で私の挑戦を許可してくれた。
かくして、ゴブリンとオークを巻き込んだ、集落史上初の「製鉄プロジェクト」が始まった。
私の指揮の下、まず粘土と石で小さな「たたら炉」を築く。私が地面に描いた拙い設計図を、ゴブリンたちが「なんだこの変な模様は?」と不思議そうに覗き込む。オークがその怪力で巨大な石を軽々と運ぶが、力が強すぎて組んだばかりの粘土の壁をうっかり壊してしまい、慌てて私が力加減を教える場面もあった。
燃料となる木炭作りでは、ミツたちが森で最も硬い樫の木を選び出し、土で作った窯で何日もかけてじっくりと蒸し焼きにした。
そして最も過酷だったのが、炉に風を送り続ける送風作業だ。オークたちが、獣の皮と木枠で作った巨大な「ふいご」を、交代で一日中踏み続ける。単調な作業に飽きた彼らが、退屈しのぎに故郷の歌を唸るように歌い始めた。お世辞にも上手いとは言えないその歌が、しかし不思議と送風のリズムにぴったり合っていることに気づいてからは、皆でその歌を口ずさみながら作業を進めた。
数日の準備の末、ついに炉に火が入った。
夜、炉は内側から赤々と輝き、まるで生きている心臓のように明滅を繰り返す。集落の全員が、固唾をのんでその光景を見守っていた。
「今だ!」
私の合図で、オークが炉の底を巨大な鉄棒で突き崩す。灼熱の光と熱波が迸り、ゴブリンたちがどよめきの声を上げた。流れ出したのは、太陽のかけらのように輝く、溶けた鉄の塊だった。
それを、もう一人のオークが巨大な石槌で叩き、私が形を整えていく。火花が闇夜に激しく飛び散り、カーン、カーン、という甲高い金属音が、この集落で初めて森に響き渡った。それは、血の匂いのしない、新しい時代の幕開けを告げる「鉄の産声」だった。
最初に完成したのは、武器ではなかった。
一振りの無骨な「包丁」と、一つのずっしりと重い「鉄鍋」だ。
私は、その包丁で、これまで石のナイフでは切れなかった硬い根菜を、スッと音もなく切り分けてみせた。ミツが驚きに目を見開く。
その夜、集落全員で完成したばかりの鉄鍋を囲んだ。採れたての野菜と、狩ってきた獣の肉、そして薬草をふんだんに入れて、じっくりと煮込んだスープ。石の器では決して作れなかった、直火で煮込まれた熱々のスープだ。
焚き火を囲み、皆が木の器でそのスープをすする。オルトは、黙って最後の一滴まで飲み干すと、器を置き、静かに目を閉じてその味を噛みしめた。そして、私の方を向き、一言だけ、こう呟いた。
「……温かいな」
その言葉は、どんな賛辞よりも深く、私の胸に沁みた。
私は、鉄鍋の中で揺れるスープの湯気を見つめていた。
かつて戦場で血を吸い、多くの命を奪い、冷たい死をもたらしてきた「鉄」。
その鉄は、ここで「還り火」となり、今、私の目の前にいる仲間たちの命を、確かに温めている。
私が本当に「還る」べき場所、そして、元勇者、元人間としてではなく、”カエリ”として生きるべき道は、ここにあるのだと、静かに確信した夜だった。




