第三話 新たな出会い
湿った土の匂いはもはや私の日常の一部となっていた。ゴブリンとしてこの身に宿ってから、どれほどの月日が流れたのかは定かではないが、かつて勇者として生きていた頃の記憶は、日ごとに遠のき、薄れていく。しかし、五感が研ぎ澄まされたこの身体は、森の微細な変化、土のぬくもり、風の囁きをかつてないほど鮮明に捉えていた。
オルトが教えてくれた「手間を惜しまず命を大事に」というゴブリンの掟は、私の新しい指針となっていた。争いを避け、ただ生きるための手間を何よりも優先する。騎士団で培った工学の知識や、冒険者としての経験は、このゴブリンの集落で静かな異変を生み出していた。水の流れを効率化するための踏車の改良、薬草の保存法の工夫、あるいは危険な獣の通り道を避けた新しい採集ルートの発見など、私の「手間」は、集落の皆に確かな恩恵をもたらしていた。私の手は土と薬草の汁で汚れ、腰は痛むが、その日一日の労働の成果が、胸の奥に小さな充足感としてじんわりと生まれるのを確かに感じる。
どれほどの時が経ったのだろうか。今日も私は一人、集落から少し離れた森の奥深くへと分け入っていた。朝靄が晴れ、木漏れ日が地面にまだらの模様を描く。以前ならば魔物や財宝を警戒したものだが、今は薬草や木の実、そして夜道を照らすヒカリゴケを探す目が、森の恵みを冷静に見定めている。
その時、微かなうめき声が、森の静寂を破った。私の鋭い聴覚は、それが傷ついた者の声であると即座に理解した。音のする方へ、慎重に、しかし素早く足を進める。茂みの奥に、小さな人影が倒れているのが見えた。
「……これは」
息を呑んだ。そこにいたのは、可愛らしく、透き通るような肌と大きな瞳を持つ、エルフの少女がいた。彼女の白い肌には、鋭利な刃物でつけられたらしい深い傷が刻まれ、そこから赤黒い血が滲んでいた。しかし、冒険者としての知識と、私のゴブリンとしての経験が、その傷が致命的ではないことをすぐに判断させた。どうやら彼女は意識を失っているようだが、呼吸は浅いながらもしっかりしている。
私は警戒しつつも、ゆっくりと彼女に近づいた。もしかしたらオルトと会った時のように、無意識のうちに「敵意がないことを示す合図」をしていたかもしれない。すぐに薬草袋を開き、森で採集したばかりのオオバコやヨモギを取り出した。まずは止血。次に、痛みを和らげる薬草を傷口に貼り付ける。勇者だった頃、行軍中に覚えた処置だ。
処置を終え、しばらくすると、少女の瞼がぴくりと震え、ゆっくりと開かれた。大きな瞳が、戸惑いと恐怖を湛え、私の緑色の顔を捉えた。 「ゴ、ゴブリン……?」 彼女の声は震えていた。当然だろう。ゴブリンに助けられるなど、彼女にとって想像もしなかった事態に違いない。
私は、かつてのような流暢な言葉はまだ話せないが、必死に穏やかな声を出すよう努めた。「怪我を見てやったんだ。大丈夫。傷つけるつもりはない」と、ゆっくりと、しかしはっきりと紡いだ。彼女の警戒心はまだ解けない。私は水筒の水を掌に受け、彼女の唇にそっと近づけた。その冷たさに、彼女の喉がごくりと鳴る。小さな躊躇いの後、彼女は恐る恐る水を飲んだ。
私の手際良い治療と、言葉こそ拙いが敵意のない態度に、少しずつ彼女の表情から緊張が消えていった。「ありがとう……」と掠れた声で礼を言う彼女の瞳に、かすかな安堵の色が宿る。
「あなた、なぜ……」 少女が何かを尋ねようとしたその時だった。遠くから、複数の足音と話し声が聞こえてきた。私の研ぎ澄まされた五感は、それが数人の人間のパーティであること、そしてその声が、私の記憶に深く刻まれた、かつての仲間たちの声であると瞬時に理解した。
私の胸の奥に、凍てつくような感覚が走った。エルフの少女の表情に、再び恐怖がよぎる。私は反射的に彼女を脇の茂みに隠し、自分も身を低くして物陰に潜んだ。ゴブリンの身体は、森の闇に溶け込むように、その存在感を消し去った。
気になるのは、なぜ彼らがエルフの少女などを攻撃したのかだ。私がリーダーだった時は、モンスター以外には決して手を出さない決まりだったはず。
「おい、エルフの野郎はどこに行った!」
荒々しい声が、森に響く。聞き慣れた声だった。この声。元タンクの男だ。今はリーダーをやっているのか。かつての仲間の出世。本当なら喜ぶべきことなのに、この姿では――
「この辺りで間違いないはずだがな。あの足の速い小娘め」
別の声。魔法使いだ。
彼らの足音と声が、すぐ近くまで迫ってくる。私の心臓が、耳の奥で、激しく脈打った。あの時、死の淵で薄れゆく意識の中で感じた、愛剣の重さが手から離れていく感覚が、脳裏をよぎる。ああ。懐かしい。
しかし、次に瞬間に彼らの口から放たれた言葉は、私の心を深く抉った。
「あいつが死んでくれて助かったよな。足手まといだったし、本当はもっと前に死んでくれたらよかったんだ。事故に見せかけるので苦労したよ。」
「ああ、まともな魔法も使えないし、甘ちゃんのくせに俺たちと同じレベルの報酬を要求するからな。いい気味だよ。”民間人には攻撃するな”だと?ぬるい奴だったよ。本当に。」
怒り。静かで、しかし沸騰するような憎悪が、私の全身を駆け巡った。彼らの言葉は、かつて私が信じ、命をかけて守ろうとした絆を、粉々に打ち砕いた。私は彼らに裏切られ、見捨てられたのだ。ゴブリンとして、この新しい命を得た理由が、はっきりと理解できた気がした。私は、還ってきた者、「カエリ」として、ここにいる。そして、この裏切りへの報いを、必ず果たさなければならない。争いを避けるゴブリンの生き方は、私の中に復讐者としての新たな道を切り開いた。殺しはしない。だが、報いは受けてもらう。
彼らは先ほど、エルフの少女が掛かったのであろう簡単な罠の場所で、しばし立ち止まっていた。私にはその仕組みが手に取るようにわかる。元冒険者としての知識と、ゴブリンとして得た森への深い理解が、私の脳内で結びついた。
私は音もなく身を翻し、茂みの奥深くへと滑り込んだ。そして、彼らが仕掛けた別の場所にある罠に、巧妙に細工を施した。縄を緩め、踏板をずらす。ほんのわずかな、しかし決定的な変化だ。さらに、彼らが目指しているであろう方向とは異なる場所に、わざと獣の足跡をつけ、彼らの進路を意図的に狂わせた。ゴブリンの身体能力は、私がかつて持っていた騎士の力とは異なるが、森の暗闇の中では、これほど頼りになるものはない。私の目は、恐ろしいほどその闇の全てを見通していた。
「くそっ、また罠が空振りか!」
「どうなってんだ、獲物が賢すぎるのか?」
遠くから聞こえる、”元”仲間たちの焦燥と苛立ちの混じった声が、私の耳に届く。その声を聞くたびに、胸の奥で、静かな満足感が広がっていく。しかし、これは始まりに過ぎない。それに、私にはやらなければいけないこともある。
私はエルフの少女を隠れ場所から連れ出し、彼女を集落の奥、安全な場所まで送り届けた。あの傷ではしばらく静養した方がいいだろうという判断だ。いずれは知られるだろうが、私の素性、かつての勇者としての過去は、彼女には決して明かさなかった。集落の奥へと続く分かれ道で彼女と別れ、再び一人になった私は、深呼吸をした。湿った土と、遠い花の匂い。胸の奥で、脈が静かに、落ち着いていく。
これから元仲間たちにどう復讐していくか、その静かで、しかし確固たる計画が、私の頭の中でゆっくりと形を成し始めた。争いを避ける生き方を選んだはずのゴブリン「カエリ」は、今、復讐という名の、最も大きな「手間」を心に誓った。それは、この場所で、私の「還る」べき場所を、新しく編み直すための、避けられぬ道筋なのだ。
遠くから、苛立ちに満ちた元仲間たちの声が、再び響き渡る。私の物語は、ここからだ。




