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第二話 元勇者、ゴブリンの仕事を学ぶ

湿った土と、夜露に濡れた苔の匂いが混じり合った朝靄が森を覆うころ、私は目を覚ました。

岩の洞穴をいくつか繋げただけの、粗末なゴブリンの集落。その一角に、乾いた藁を厚く敷いただけの寝床。背中は岩肌の硬さで少し痛むのに、不思議と目覚めは悪くなかった。勇者だった頃の、羽毛の寝台で見る悪夢よりも、ずっと穏やかな朝だ。


外に出れば、仲間たちはもう黙々と働いていた。石斧で薪を割る者、黒曜石の欠片で槍の柄を滑らかに削る者、湧き水で土器を満たす者。誰もが無駄口を叩かず、剣を振るうこともなく、ただ生きるための一つ一つの「手間」に、静かに精を出していた。


 「おい、新入り」


 低く、年季の入ったしわがれた声に振り返ると、昨日、私を『カエリ』と名付けてくれた老ゴブリンが立っていた。彼の名はオルト。小柄ながら、鍛えられた体と背筋の伸びた姿は、妙な威厳を漂わせている。


 「今日からお前にも働いてもらう。ゴブリンの掟は覚えているな?」

 「……ああ。手間を惜しまず命を大事に。だろ」


 そう答えると、オルトは口の端を上げ、にやりと笑った。



 その日の最初の仕事は、薬草採りだった。

 オルトと数匹の若いゴブリンに混じり、私は森の奥へと分け入る。木漏れ日がまだらの模様を地面に描き、無数の緑が萌え出でている。騎士だった頃なら、次に茂みから現れるのは魔物か、あるいは隠された財宝かと身構えたものだ。だが、仲間たちは鋭い爪で土を優しくまさぐり、一枚一枚、葉の形と匂いを確かめていた。


 「これは……傷薬になる草か?」


 私は、記憶にある薬草とよく似た葉を見つけ、引き抜いた。


 「馬鹿者、そいつを口にするな」


 オルトが鋭い声で制し、私の手から葉を叩き落とした。


「それは『眠り草』だ。見た目は似ているが、茎に赤い筋がある。食べれば三日は目が覚めん。下手をすれば、永遠にな」


 ぞくり、と背筋が冷えた。彼は、私が抜いたものとよく似た、しかし葉先が丸みを帯びた草を指さした。


 「こっちだ。匂いを嗅ぎ、茎のしなりを確かめる。手間を惜しむな。森ではそれが命取りになる。よく見ろ。葉先の形も、匂いも全然違う」


 彼は革の袋を開いて見せてくれた。中には乾燥させた葉がぎっしりと詰まっている。濃い薬草の香りが鼻を突く。よくよく見れば、先ほど私が取り違えた薬草がぎっしりと詰まっている。


 「煮出せば熱を下げ、火傷に貼れば膿みを抑える。俺たちにとっては、どんな名剣よりも大事な薬だ」


 それからオルトは慣れた足取りで森の奥に入っていくと、腐りかけた古い倒木に群生する苔を指さした。茂った木の葉に遮られた薄闇の中で、それ自体が淡い光を放っている。ヒカリゴケだ。


 「これは夜道を照らす灯りになる。全部は採るなよ。根を少し残しておけば、来年もまた、こいつの光を目印にできる。来年の俺たちと、森の他の生き物のためにもな」


 オルトたちは、来年のために、会ったこともない誰かのために、今日の収穫を制限する。私は思わず感嘆の声を漏らした。騎士として、戦の前に、明日のことすら考えたことは一度もなかったというのに。

 泥にまみれた緑色の指先に、私は初めて「生き延びる」ための、本当の知恵を感じていた。



 昼過ぎに集落へ戻ると、しばらくの休憩の後、オルトが再びやってきて、「次はスライムの世話をするぞ」と言った。


 「世話?」と首をかしげる私を、オルトが集落の最奥にある大きな洞穴へと案内する。そこには、人為的に掘られ、粘土で固められた大きな槽があり、青く透き通った巨大な塊が、水槽の水を満たすように鎮座していた。


 「こいつが浄化槽スライムだ。俺たちの食い残しも汚水も、文句一つ言わずに飲み込んでくれる。だが、腹がいっぱいになりすぎると機嫌を損ねて暴れだす。だから、腹をさすってやるのさ」


 ゴブリンたちは、長い木の棒を手にし、当たり前のようにそのゼリー状の体をかき混ぜ始めた。ぬるり、とした鈍い音。むっと立ち上る、独特の発酵臭。私は思わず顔をしかめた。


 「オークをも蹴散らす勇者だった俺が……スライムの世話か」


 自嘲が漏れたが、有無を言わさず棒は渡される。恐る恐る、その青い体に棒を突っ込むと、ズブリ、と生温い湯気が上がるとともに、柔らかな感触が手に伝わった。ぐにゃりと形を変え、ぷくりと大きな泡を吹く。思わず後ずさりした。


 「ははは、気持ちはわかるがな。怖がらなくていい」


オルトが笑う。


「ただ空気を抜くんじゃない。底に溜まった分解物と、上澄みの綺麗な部分を入れ替えて、こいつの消化を助けてやるんだ。人間で言う、腹のマッサージみたいなもんだ」



 言われるがままに、ゆっくりと、大きく混ぜ続ける。ぬるりとした感触は、死体とも泥とも違う、確かに「生きている」ものの感触だった。すると、あれほど膨張していたスライムは落ち着きを取り戻し、青い体がゆるやかに波打ちながら、心地よさそうに槽の中へと収まっていく。


 額から汗が滴った。戦場で流した、血とアドレナリンにまみれた汗とは違う感覚。不思議と、悪い気分ではなかった。



 一日の仕事を終える頃には、私の手は土と薬草の汁で汚れ、腰もひどく痛んでいた。だが、乾燥棚に並べられた薬草の束と、静かに澄んだ浄化槽の水を見た時、胸の奥に、これまで感じたことのない小さな充足感が、じんわりと生まれていた。


 「よくやったな。これでお前も、今日から立派なゴブリンだ」


 オルトが、無骨な手で私の肩を叩いた。


 夜、集落の中央で焚き火が熾された。今日の収穫である薬草を煮込んだ、具の少ないスープが木の器で配られる。ヒカリゴケを詰めたガラス瓶がいくつか置かれ、その淡い光が、仲間たちの穏やかな顔を照らしていた。


 勇者だった頃の宴は、いつも豪華だった。うず高く積まれた肉と酒、勝利を称える歓声と、楽師たちの賑やかな音色。しかし、そこには常に、次の戦への緊張と、手柄を誇示する貴族たちの見栄が渦巻いていた。


 だが、今ここにあるのは、素朴な草の香りと、仕事の成果を静かに語り合う仲間たちの低い笑い声だけだ。

 私は、熱いスープが注がれた器を両手で包み込み、一口すすった。少し苦いが、滋味深いその温かさが、今日の労働の疲れと共に、心の奥深くまで、ゆっくりと沁みわたっていくのを感じた。


 ――あの頃よりも、この一杯の方が、ずっと魂に沁みる。

 私は心からそう思った。

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