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序章+一話 元勇者、ゴブリンに転生する

刃がぶつかる音は、まるで遠くから聞こえる鐘のように、頭の奥で鈍く響いていた。


巨躯の魔物が咆哮し、その爪が空を裂く。風圧だけで肌が切れるようだ。慣れ親しんだ鉄の盾で受け流し、泥濘に踏み込み、渾身の力で剣を押し込む。何度も、何度も繰り返してきた、勇者としてこの身体に染み付いた手順――それが、ぷつりと途切れた。


視界の端で、西の空に吊るされた夕陽が、砕け散るようにきらめく。美しい、と思った。


次の瞬間、ふくらはぎに氷のような冷たい感触。遅れて、灼熱の痛みが火のように全身を駆け巡り、膝の力が抜けた。スローモーションのように、ぬかるんだ地面が近づいてくる。仲間の名前を叫ぼうとした声は、血の泡と共に空に散った。


――ああ、ここまでか。


薄れゆく意識の中で、ただ、愛剣の重さだけが、ゆっくりと手から離れていくのを感じていた。





湿った石の感覚と、古い土の匂いで目が覚めた。


ここは、洞窟・・・?


真っ暗闇のはずなのに、周囲の輪郭が奇妙なほどはっきりと見える。洞窟の天井にある無数の亀裂、そこに根を張る苔の微細なつぶつぶ、壁を伝って遠くを流れる水の筋。信じられないほど、夜目が利いている。


……体が、軽い。いや、違う。これは、小さいのか?


起き上がろうとして、視界に入った自分の手を見て、息を呑んだ。


息を呑むように鮮やかな緑色だ。指は短く、関節は節くれだち、爪は黒く尖っている。皮膚はざらざらと硬く、人間のものとは明らかに違う。胸のあたりで何かが当たるので無意識に触れると、尖った犬歯が下唇に触れた。喉の奥で、試しに音を出してみる。


「……誰か」


そう言ったつもりだった。だが、実際に漏れ出たのは、喉に何かが擦れるような、短く、意味をなさない音だった。


「ガ……カ」


その時、洞の入口から、聞き慣れた人の声がした。


「奇襲は成功だ。巣はもう空だろう」「夜になる前に引き上げるぞ。ゴブリンの死体は放っておけ」


言葉の意味は分かる。全て分かる。けれど、同じ音の形で返すことが、この喉にはできない。


私は反射的に身を低くし、岩陰に転がった。耳の奥で、自分の鼓動がやけに大きく、はっきりと聞こえる。どうやらこの身体は五感の全てが非常に鋭いらしい。


人間たちの居た方へ歩いていくと、洞窟の入り口から光が漏れている。近づくと洞内に差し込む白い光が目を刺す。瞼が重く瞬くたびに、生理的な涙がじわりと滲んだ。


しかし、感傷に浸る暇はない。水だ。まず、水を飲まなくては。


壁を伝う細い流れに唇を寄せる。岩肌を伝ってきた水は、驚くほど冷たかった。喉が驚いたように震え、渇きが少しずつ癒えていく。指で床の土をすくってみる。粘り気があり、よく締まる。これを焼けば、頑丈な器になるだろう。そう、昔の手が、人間の手が、勝手にそう考える。


拳を開き、閉じ、そしてもう一度開いた。掌に刻まれた皺は浅く、見慣れない生命線が渦を巻いている。

私は、息を吐いた。ゆっくりと、耳の奥の鼓動が静かになるまで。

外の足音はいつの間にかどこかへと消えていた。人間たちは、行った。


私は近くに落ちていた小石を拾い、湿った床に二つの丸を描いた。ひとつは、今いるこの場所。もうひとつは、帰るという、行為そのものを示す印だ。この意味が通じる相手は、もうどこにもいない。けれど、私自身には、これで通じる。

もう争わない。命より先に、手間を払う。それが、これからの私の、新しい掟だ。

手の甲の緑色が、まるで焚き火の暖かな赤を待っているかのように見えた。

私は静かに立ち上がる。洞の陰影は深く、私の目は恐ろしいほど、その闇の全てを見通していた。





洞の奥から、小石を蹴る微かな音がした。湿った土の匂いに、藻の青い甘さが混じる。暗さに目が完全に馴染むと、輪郭はさらにくっきりと見えた。影が二つ。背を丸めた小柄な影と、その肩を痛々しく支える、さらに小さな影。


私は両手のひらを見せ、指をゆっくりと開いた。人間だった頃の騎士団で習った、敵意がないことを示す合図だ。


「……誰だ」


低く、しかし落ち着いた声だった。


「怪我を見てやろう。刃物は持っていない」


私の喉は、驚くほど自然に、彼らの言葉を紡ぎ出した。


近づいてきた年長のゴブリンの脛には、獣罠でついたらしい深い裂傷があった。彼に抱えられるようにしていた子供の方は、足の裏に木の棘が深く突き刺さっている。


「痛い……」

「すぐに抜いてやろう。少ししみるが、我慢してくれ。」


私は、人間だった頃の行軍中の知恵を頼りに、手早く薬草を処置した。オオバコの汁で棘を抜き、よもぎを噛み砕いて傷口に貼る。その手際の良さに、年長のゴブリンが目を細めた。


「お前、何者だ。少しだけ、人の匂いがする」

「死んだ。そして、目が覚めたらここにいた。ゴブリンになっていた」


拙い説明だったが、伝わったらしい。彼は深く頷いた。


「稀にあることだ。人が終わり、ゴブリンとして始まる。お前の名は、カエリとしよう」

「カエリ……」

「そうだ。還ってきた者。お前は人の言葉を解し、草の知恵を持つ。私たちを助けてくれたこと、感謝する。我らの仲間になれ」


彼はそう言って、節くれだった手を差し出した。私はその手を、力強く握り返した。硬く、そして温かい手だった。




年長者は、自らをオルトと名乗り、子供の名をミツだと言った。彼は私を、洞の外の集落へと案内してくれた。

そこは、驚くほど静かで、整然とした場所だった。最初に案内されたのは、彼らが住処とする洞窟の奥深く。壁一面に、淡い光を放つ苔が広がっていた。


「ヒカリゴケだ。我らの声に、応えてくれる」


オルトが低い声でハミングすると、苔の光は呼応するように、ふわりと明るさを増した。それはまるで、洞窟全体が穏やかに呼吸しているかのようだった。


食料を貯蔵する横穴には、いくつもの大きな甕が並んでいた。蓋を開けると、果実の甘く芳醇な香りが鼻をくすぐる。


「カビスライムだ。甕の中の果実を、ゆっくりと酒に変えてくれる。怒らせると酸っぱくなるから、静かにせねばならん」


オルトは悪戯っぽく笑った。


外の畑では、アルマジロに似た小型の魔物「ツチホリ」たちが、畝の間を忙しなく走り回り、その頑丈な爪で土を耕していた。ミツが木の実を投げ与えると、彼らは嬉しそうに受け取り、また土の中へと潜っていく。


集落の境界線には、地面から釣鐘のような形をした植物がいくつも生えていた。私がその近くを歩くと、一つの鐘が「チリン」と澄んだ警告音を鳴らした。


「ツリガネソウだ。我ら以外の足音を教えてくれる。……よしよし、こいつはもう仲間だぞ。大丈夫だ。」


オルトが草の頭を撫でると、音はぴたりと止んだ。


水源と集落の間には、甲羅に小さな池ほどの水を溜めた亀「ミズハコビガメ」たちが、ゆっくりとした列をなして往復していた。彼らの甲羅には苔が生え、可憐な花が咲いているものもいる。静かで、確実な生命の営みがそこにあった。

小さな工房では、別のゴブリンが、金属を食べる「テツクイムシ」のフンから集めた鉄粒を、石の金床で叩いてナイフを打っていた。傍らでは、割れた土器を「ネンエキカタツムリ」の出す強力な粘液で、丁寧に修理している。


小川沿いには、小さな水車が静かに回っていた。川の水が少ない日には、隣に設置された踏車を、屈強な二人のオークがゆっくりと踏んで補うのだという。


「オークたちとは友だ。塩や干し肉と、彼らの力を交換する」


踏車の脇には水桶と干し肉の小袋が置かれ、彼らへの敬意が示されている。私は踏車の歯車のかみ合わせを指でなぞった。木と木が噛み合う、規則正しい音。騎士であった頃に学んだ工学の知識が、この仕組みの負担をわずかに軽減できることを教えてくれた。


「ここの歯を少し変えれば、肩への負担が軽くなるだろう」


木炭で板に簡単な図を描くと、オークの一人が黄色い目でじっとそれを見つめ、短く「……頼む」とだけ言った。彼らの息は深く、落ち着いていた。働き者の、実直な呼吸だ。


「これがゴブリンの生き方だ。昼は手を動かし、夜は足を動かす。人を避け、争いを避け、ただ生きるための手間を、何よりも先に行う」


オルトの言葉は、これ以上なく簡潔な、彼らの哲学だった。そして、争いの果てに命を落とした私の新たな生き方の指針とも一致する。どうやら、ゴブリンになるということは、姿かたちだけの話ではなく、ゴブリンの生き方をするということでもあるらしい。

私は頷く。もう剣には頼らない。ここで、手を取り合って生きていく。


陽がゆっくりと傾き、空気が柔らかくなる。私の目は、いよいよ冴え渡る時間に入った。オルトは洞の入口で骨の鈴を鳴らし、群れに夜の始まりを告げる。


「夜の狩りに出る。お前も来るか?」


私は、力強く頷いた。行く。争わず、手間を払う、この新しい生き方で。

この場所で、私の「還る」べき場所を、新しく編み直すのだ。


焚き火はまだない。だが、この穏やかな営みの中に、確かに温かな湯気の立つ未来が見える。

夜の始まりの匂いがした。湿った土と、遠い花の匂い。胸の奥で、脈が静かに、落ち着いていく。

そして、私は心の中で、ゆっくりと、しかしはっきりと誓った。


――始めよう。手間を惜しまず、ここから。

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