静謐のリリア
白い朝の光が書斎の窓からそっと差し込む。冷えた空気が指先を包み込み、ピアノの鍵盤に触れる感触がひんやりと伝わる。
私の奏でる一音一音は、お嬢様の目覚めの合図。
彼女はまだ少し眠たげなまなざしでバイオリンを手に取り、ゆっくりと弓を弦に滑らせた。
ピアノの旋律が、ゆっくりと指先からこぼれてゆく。柔らかな和音が床を這い、壁に染み込み、天井へと溶けてゆく。鍵盤の感触が、記憶の小さな扉を静かに叩いた。
あの冬の午後、親戚の家の薄暗い一室で。埃を被った古いオルガンの前に、私はひとり座っていた。言葉にできない思いを音に変える術しか知らなかった。誰にも頼らず、誰にも甘えず、それでも音だけは、自分に寄り添ってくれた。あの家で過ごした日々に温もりは少なかった。夕方の誰もいない部屋で、こっそりと鍵盤を叩いている時間だけが、生きている実感をくれた。
この家に仕えるようになったのは、それから幾年も経たぬ頃。
不思議なご縁でこの家に呼ばれ、この部屋で初めて二人で音を奏でたとき、私は初めて、「誰かのために奏でる音」の意味を知った。
音が零れ落ちる。柔らかく、しかし確かな旋律。お嬢様の弓が弦を撫でるたび、幼い頃、まだ家族が揃っていた日々の記憶が揺らめく。母の笑い声。父の、少し厳しい声。夕暮れに響いていた食器の音や、ピアノの練習を見守る視線。何気ない日常が、あの頃は当たり前のようにそこにあった。
けれど、それらはある日を境にふいに途切れた。
車の衝突音、病院の白い天井、親戚の家に運ばれる小さな荷物。あのとき失われたものは、もう二度と戻らない。私はただ、音楽だけを手放さずにいた。それだけが、私の世界に残された唯一の温もりだった。
ふと、隣から細く伸びる旋律に目を向ける。
お嬢様の横顔が、朝の光を受けて淡く照らされていた。瞼の動き、呼吸のわずかな揺れ、指の角度、弓のしなり。そのすべてが、まるで繊細な詩のように感じられる。音にすべてを閉じ込めるように、彼女は一言も発さずにただ弾く。それが習慣であり、祈りであり、誰にも明かせぬ沈黙の言葉なのだろう。
何を思いながら、今日もこの旋律を紡いでいるのだろうか。何に傷つき、何に救われようとしているのだろうか。
彼女の孤独は、私の知る孤独と、どこかよく似ている。華やかな家に生まれながら、両親の姿を見ることは少なく、日々の暮らしのほとんどを私と過ごしているお嬢様。無邪気さの奥に、時折ふと見せる寂しげな瞳。あれは、幼き日に鏡で見た自分の目に、よく似ていた。
かつて、親の愛を失った私。今、親の温もりに触れられずにいる彼女。同じではない。けれど重なる。その重なりを、私は見逃すことができなかった。
お嬢様の音は乱れない。まるで朝露のように澄みきって、弓の動きひとつひとつに揺らぎがない。彼女の指先から生まれる音は、いつだって完璧だ。傷ついたまま、それでも音に逃げず、真っ直ぐに向き合う強さを、彼女は持っている。
私はただ、その旋律に寄り添うだけだった。自分の感情も、記憶も、言葉もすべて音に沈めて。彼女の音が孤独にならないように、そっと重ねていく。それが、今の私にできる唯一のことだった。
最後の和音が静かに満ちて、そして、消える。
沈黙が戻る。けれど、それは苦しい沈黙ではない。静けさの中に、たしかな呼吸があった。
「ありがとう、真司」
お嬢様の声は、弓を置く仕草とともに小さく響いた。
「いつものように、素敵な朝だったわ」
「こちらこそ、変わらぬお目覚めの音色をありがとうございます」
ふと窓の外に目をやると、庭の木々がわずかに芽吹いていた。つい先日まで枯れ枝ばかりだった枝先に、柔らかな若葉が揺れている。
「春、ですね」
私の呟きに、お嬢様も微笑みながらうなずいた。
変わらぬ朝、繰り返される旋律。そこに季節の移ろいは確かに宿っている。
明日もまた、この部屋で音が重なるだろう。