第7話 始まりの場所
私はその手紙を元の場所に戻した時、部屋の空気が少しだけ重たくなったような気がした。まるで目に見えない何かの圧が、静かにこの空間の隅々に降り積もっていくみたいに。
置いたばかりのその手紙を、もう一度見やる。紙の端には、さっき私の指先が触れた温もりと折り目の感触が、まだ微かに残っていた。
「……やっぱり、元の場所に戻した方がいいよね」
そう呟いた声は、まるで塵のように軽かった。
それから、私は物置室の中を振り返った。乱雑に積まれた段ボール箱と雑多な物たち。そうだ、先生に頼まれた仕事、まだ終わってなかった。
制服の裾を軽く払って、深呼吸を一つ。胸の中に渦巻いていた波を押し沈めるようにして、「通常モード」へと切り替える準備をする。だって私は、どんな時でも任務に戻れるタイプの生徒だったから。心がまだ少し乱れていても、やるべきことは分かっていた。
私は部屋の隅に積まれた段ボールの一つに近づき、腰をかがめて開けようとした。
その瞬間、足元の床が、かすかに震えた。気のせいじゃない。低く細い振動が、足裏から骨を伝ってじわじわと登ってくる。まるで空間の奥底から浮かび上がる見えない気流が、名もなき予兆を連れて這い寄ってくるような感覚だった。
灰色で静止していた空間が、誰かにそっと指先で触れられたかのように揺らいでいた。隅に溜まっていた埃さえも、微かに震えている。風は吹いていないし、窓も閉まったまま。けれど、周囲の空気はひんやりと薄くなっていき、まるで真夜中の湖面に立ちこめる霧のように、冷たくて息がしにくい。
私はその場に立ち尽くした。ほんの一瞬、時間がスローモーションのように遅く感じた。呼吸の音が妙に大きく聞こえ、胸の奥で心臓が鐘を鳴らすように響いていた。
——ドン。
——ドン。
——ドン。
私の視線は、思わずさっき手紙を戻した場所へと戻った。その紙が、微かに震えていた。見えない何かに引かれているように、誰かに呼ばれているかのように。私は無意識に手を伸ばし、紙の角に指先が触れたその瞬間——ほとんど音もなく、皮膚から骨へと波紋が伝わり、全身へと一気に広がっていった。
空間が、揺れた。壁や天井の輪郭がぼやけ始め、棚や机はまるで水の中に沈んでいるかのように歪んでいく。直線だったものが奇妙な曲線に変わり、現実そのものの枠組みが壊れていくような錯覚に陥った。
私は顔を上げた。天井のどこかに生じた裂け目から、斜めに光が差し込んでいた。それはさっきまでの冷たい蛍光灯の白でも、窓の隙間から射し込む夕暮れの光でもなかった。不自然なほど白く、まるで水面下から反射した月明かりのように静かで——別の時空から零れ落ちた静寂そのもののように、そこに降り注いでいた。
私は瞬きをした。けれど、その光がどこから差しているのかを見極める間もなく、次の瞬間、光が一気に閃いた。
「……!」
本能的に後ずさろうとした。だが、もう遅かった。
耳元に、ブーンという音が鳴り始めた。それは無数の微かな囁きが空気中に重なり合って響いてくるようでもあり、まるで心臓の鼓動が無数の音節に分解され、私の体の内側とシンクロして震えているかのようだった。
耳鳴りはどんどん強くなっていく。何千、何万という音が耳の奥で反響しているようなのに、私はそのどれ一つとして聞き取れなかった。
光が、私に向かって押し寄せてくる。それは「照らす」ではなく——「呑み込む」だった。
私は呼吸する暇もなく、声を出す余裕もなかった。全身が見えない掌に掴まれて、下へ、内側へ、形のない何かの空間へと引きずり込まれていく。
意識が、果てしない潮流に巻き込まれていった。視界はぼやけ、物置室の壁が歪みながら重なり合い、水で洗い流されたように砕けては、一片ずつ剥がれ落ち、浮遊する断片へと姿を変えていく。
そして――。
すべてが、突然、静寂に包まれた。音も、色も消えた。ただ私一人、何かに引きずられるように、見えない裂け目の中へと落ちていった。
その裂け目は音もなく開き、まるで時間そのものが、私のためにわずかな通り道を開けてくれたかのようだった。細く、けれどこの世界すべてを飲み込むには十分な幅だった。
そして最後の最後に——私は、消えた。
あの光に、まるごと呑み込まれてしまった。痛みも、恐怖もない。ただ、あの手紙だけが、裂け目の中に静かに残されていた。まるで、証人であり、道しるべであるかのように。
私の胸の奥には、ただひとつだけ、はっきりとした強烈な予感があった。
私は、これから「ある始まり」へと戻るのだ。




